「理由なき反抗」の理由(文:高橋征仁)

なぜ若者は、些細なことで他人と大喧嘩をしたり、逆にどうしようもないことに劣等感を抱いたりするのだろうか?なぜ若者は、能力以上に自分を過信したり、ありもしない未来を夢想したりするのだろうか?なぜ若者は、古いものにはあまり興味を示さず新しいモノや流行に敏感であろうとするのか?なぜ若者は、仲間とは意気投合しても、大人の忠告は素直に受け入れないのだろうか? そして、なぜ大人たちは、そうした若者の一挙一動にいちいち目くじらを立てるのか?

私は、高校生の頃からずっとこんなことを考えてきた。自分自身の感情をうまくコントロールすることができなかったせいかも知れない。自分自身を分析対象にすることで、自分の中の怒りや苦しみを何とか飼い慣らそうとしてきた。そして、その答えを求めて、社会学と心理学を行き来しているうちに、いつの間にか、それが日々の仕事になってしまった。

社会学者たちは、若者が時代とともに変わる存在であることを指摘してきた。とくに近代化以降、青年期が延長され、高等教育が拡大・大衆化し、若者が消費や流行の担い手になったことを強調してきた。他方、心理学者たちは、子どもと大人のギャップの中で、若者たちのアイデンティティや道徳性が揺れ、しばらくすると安定するという発達的変化を指摘してきた。そして、私は、社会心理学者として、この時代的変化と発達的変化についての知見を学び、学生たちに教えてきた。

しかし私は、これらの説明にあまり満足していなかった。そうした説明が、どこか表面的で、後付けであるということを薄々は感じていた。というのも、私が問い続けてきたのは、若者の時代的変化や発達的変化ではなく、そうした若者の変化しやすさ自体が、なぜ普遍的にみられるのかということだったからである。日本でもアメリカでも、あるいはアフリカでも、若者の基本的特性にはそれほど大きな違いはない。

1992年にレダ・コスミデスらが唱えた「進化心理学」は、そうした私の不満に応えるものであった。彼女らは、ヒトの脳が、自然選択を通じて人類の進化のプロセス(とりわけ狩猟採集時代の選択圧)で形作られてきたと主張した。ヒトの脳には、過去の生活環境下での問題を解決するために選択された心のプログラムが、多数残されているというのである。この新しい学問は、旧来の「心理学」という枠組みを超えて、fMRIなどのニューロイメージング技術やゲノム解読、コンピュータ・シュミレーション、霊長類学などと結びつきながら、急速に成長を遂げてきた。そして現在では、「進化心理学」という名称が、アカデミズムの既得権益を打ち壊して、多くの学部や学科、研究所などで用いられるまでになっている。ヒトの心が系統発生的な基礎を持つということも、それぞれの心のプログラムが別々でうまく統一されていないということ(モジュール説)も、そして他者も同様のプログラムをもつことを類推する能力があるということ(心の理論)も、伝統的な社会学や心理学の教育を受けてきた私にとっては、衝撃的な内容の連続であった。

この進化心理学の観点からすれば、若者の規範意識の揺らぎも、その背後に何らかの適応的機能を持っていたことになる。これまで規範意識の研究が、暗黙裡に、規範への同調を適応として捉えてきたのとは真逆である。これまでは、規範への同調を前提に考えてきたからこそ、若者の規範意識の変化が、10代半ばから20代初めにかけて「低下する」と理解されてきた。しかし、規範への同調が適応ならば、ヒトはもっと従順な存在として生まれるはずのではないのか?なぜ、ヒトには<反抗期>が2度も存在するのか?むしろ、進化心理学的観点から、この揺らぎを適応的なものとして理解することで、若者の心や行動について全く異なった解釈が可能になるかもしれない。

そこで、通常示される規範意識のグラフを上下反転させて、年齢とともに規範からの逸脱が許容される現象を示したのが、図1と図2である。これらの図では、10代後半をピークに、規範意識が「低下」し、その後「回復」するプロセスが示されている。これらの図を見ると、規範意識の変化が必ずしも一様ではないこと、そうした中で「性的行為」に関する許容が最も急激に変化していることがわかる。それだけでなく、17歳をピークとしたこの曲線は、犯罪学で有名な年齢―犯罪曲線(ユニバーサル・カーブ)と見事に一致するのである。性こそが、規範意識の再編や多様性、創造性のスィッチであると考えられる。

進化心理学的観点からすれば、思春期のこうした現象は、ヒト固有のものではなく、繁殖を迎えた多くの哺乳動物に共通する心的傾向にほかならない。すなわち、若者の揺らぎやリスク行動の背後にある究極要因は、配偶獲得のために、攻撃性や縄張り意識が高まっていく性選択のメカニズムにあると考えられる。ジェームズ・ディーンの代表作『理由なき反抗』で行われるカーチェイスやナイフでの決闘シーンは、進化論的にみれば、明白な理由にもとづいていたということになる。

もっとも、人間の場合、こうした性選択がもたらすのは、ケンカや無謀な挑戦ばかりではない。『女が男を厳しく選ぶ理由』によると、『ライ麦畑でつかまえて』も『レット・イット・ビー』も、『MS-DOS』も、こうした思春期特有の揺らぎによって引き出された稀有な才能であるという。この主張が正しいかどうかはともかく、若者の挑戦的・反抗的なあり方が、地球上の隅々にまで生活圏を拡大し、文化を更新し続ける人間という種の特性と関連していることは、どうやら間違いなさそうである。