数学者になりそこねた私(文:岩部 浩三)

私は一応英語学の専門家ということになっております。小学生のころ算数はわりと得意でしたが、中学・高校と数学は興味の対象から外れていて、数学者になろうと思ったことなど一度もありません。にもかかわらず、このタイトルでここに何を書こうと言うのでしょうか。

まずは英語学者の立場から、いつもの英語進行形の話です。

(1)

a. Bill was crossing the street (ビルは道路を渡っていた)

b. But he was run over by a truck (ところが、途中でトラックにひかれてしまった)

進行形は、出来事全体の中から一部分を取り出して表現する方法です。(1a)では、ビルが道路を渡るという行為の途中であったことを描写しています。通常はビルが道を渡り終えたであろうことが推測されますが、これに(1b)を続けると、ビルは道を最後まで渡れなかったことになります。

上記のように、進行形で述べられている出来事は必ずしもそのまま完結するとは限らず、出来事全体がこの世の中に存在しないことがあります。「途中である」と言っているのですから、何らかの意味で出来事全体を見てその一部を切り出していることは確かですが、肝心の出来事全体が実在しないということがよくあります。「完結していない(=全体がない)」のに「途中である(=一部だけがある)」と言えるのはなぜか。この問題は、「進行形における未完了のパラドックス」と呼ばれておりますが、ここではこのパラドックスに深入りすることは避けて、出来事が完結せずに終わってしまうことは、きわめてありふれた話であることだけに留意しておきましょう。

(2)

a. Mary was making scones (メアリはスコーンを作っていた)

b. Mary was making cookies (メアリはクッキーを作っていた)

(2)について状況説明を加えましょう。メアリはスコーンというお菓子を作るつもりでしたが、うまく膨らまず失敗してしまいました。しかし結果的にできあがったものは美味しいクッキーと言えるものでした。さて、ベーキングパウダーを入れ忘れるという決定的な瞬間までに彼女がやっていたことは何だったのでしょう。彼女の意思を尊重すれば、「スコーンを作っていた」はずなのですが、できあがったものは結局クッキーなのですから「クッキーを作っていた」とも言えるはずです。メアリ本人が何も言わなければ、周りの人は当然のように「クッキーを作っていた」と思うにちがいありません。このように、同じ一つの状況に対して、(2a,b)のような進行形で複数の異なった述べ方が可能であり、しかもそれは両立します。単純な例で見てきましたが、これは人生であろうが、歴史であろうが同じです。

私は現在、英語学者と言って良い職業についていますから、今までの人生のどの部分を取り出しても「英語学への道を歩んでいた」と述べることができるでしょう。小学生のころはまだ英語を全く習っていませんし、当人もそんなことは思いもよらなかったわけですから、その時点では当てはまらないように思われるかもしれませんが、ことばの関心が強かったとか、さまざまな証拠を集めてきてそれらしく正当化することは十分できるにちがいありません。

他方、私の人生では実現しなかったことについても、進行形で表現することが可能なはずです。例えば、タイトルから推測される「数学者への道を歩んでいた」という記述も決して成り立たないわけではありません。むしろ、算数が得意だったなど、具体的な証拠は英語学者への道よりも多いかもしれません。そのように考えれば、私は音楽家になりそこねたり、自転車屋になりそこねたり、商社マンになりそこねたり、国語教師になりそこねたり、自分で意図するしないにかかわらず、さまざまなものになりそこねていると言えるでしょう。ここではタイトルにしたがって数学者になりそこねた決定的瞬間を探してみることにします。

今から41年前のちょうどこの冬の季節、私は中学受験のために勉強しておりました。算数で扇形の面積を求める問題があり、円弧の長さと半径が与えられていましたから、半径から円周の長さと円の面積を計算し、比例配分で扇形の面積を出すことは難なくできました。ところが、そのような通常のやり方ではなく、次のような直接的な方法があることをそこでたまたま知りました。

(3) 扇形の面積=円弧の長さ×半径÷2

これは衝撃的でした。三角形の面積の公式(4)にそっくりですから。

(4) 三角形の面積=底辺×高さ÷2

それでは扇形はある種の三角形なのでしょうか。また、このやり方で円の面積も正しく計算できるのでしょうか。とりあえず、後者を試みました。円周の長さはすでに習った公式(5)のとおりです。

(5) 円周の長さ=直径×円周率(3.14)

そこで(3)の式の「円弧の長さ」の代わりに「円周の長さ」を入れてみると、次のようになります。

(6) 直径×円周率(3.14)×半径÷2

驚いたことに、これはおなじみの円の面積の公式(7)と同じです。

(7) 円の面積=半径×半径×円周率(3.14)

三角形の面積の公式によく似た(3)から円の面積が正しく得られました。やはり円も三角形なのでしょうか。

(3)を見た時、扇形と三角形の類似性には直感的に思い至りましたが、円までも三角形と同じとなるとそこには大きな違和感がありました。しかし、計算の結果は円も三角形と同類であることを暗示しているようです。当時の私には、独力でこの違和感を解消することができませんでした。

その後、高校生になって微積分をちょっとだけかじる機会がありましたが、数年間数学の勉強をさぼり続けたツケは大きく、「今頃になって再会しても昔の気持ちにはもう戻れないよ」ということだったのでしょう。もはや数学への熱い気持ちが燃え上がることはありませんでした。

「君の見立てはまちがっていない。極限まで細くした三角形がたくさん集まっていると考えてごらん。扇形も円も同じことだよ。そもそも、君が知っている円の面積の公式だってそのような発想に基づいているはすだ。このことは高校で習うから、それまでしっかりと数学の基礎を勉強しておくことだね」 こういう助言が身近で得られていれば、万が一にも数学の扉をくぐって向こう側に行けたのかもしれません。私にとって、数学への道の決定的瞬間はあの時だったかもしれない、ということにしておきましょう。

算数・数学教育における円の面積の扱いについては、今もあまり事情は変わらず、小学5年で公式を教えられ、その後、高校3年の「数学III」において微分積分によって証明されることになっているようです。「数学III」を学ばなかった多くの高校生にとっては自己完結しないままになってしまうし、何とも長い空白期間です。とは言うものの、私に限って、数学への扉が開かれる前に終わってしまったのは、カリキュラムのせいではなく、もっぱら私自身の感性の鈍さによるものであることは間違いありません。決定的瞬間となるべききっかけは他にも数多くあったはずなのに、こと数学に関しては、こういった衝撃がその後はっきりとは記憶されていないのですから。

いずれにしても、スコーンはできそこなってしまいましたが、曲がりなりにもクッキーはできたようですから、それで良しとすべきなのでしょう。