ECOな人びと(文:乾 秀行)

言語学者と一言で言っても、いろいろなタイプがあります。研究室の机に座って、理論的に言語構造を解明している人もいれば、言語音を機械にかけてみて実証的に分析している人もいます。しかし研究室にじっとしているのが性に合わなくて、フィールドワークというものをしている人もいます。私が最近やっているのは、そういうタイプの言語学です。毎年アフリカのエチオピアに出かけて行って、少数民族の言語の記述調査をしています。

今はインターネットが普及し、「イッテQ!」のようにわざわざ危険な目に遭わなくても、涼しいエアコンが効いた研究室でパソコンに向かってネット検索している方が効果的に言語データを集められるようになりました。逆にエチオピアに行けば、一日8時間以上舗装されていない道を車で移動したり、一日中炎天下を歩き回ることは常のことです。昼間灼熱の暑さに耐えた身体は、夜になると今度は忍び寄るマラリア蚊から守らなければなりません。現地の人にとって高級ホテルと思われる宿泊施設に泊まったとしても、水が何日も使えなかったり電気が来なかったりします。ましてや宿泊施設もないような小さな村に訪れたならば、完全なサバイバル生活になってしまいます。トイレットペーパー片手に茂みで用を足していると、突然牛が現れて「モォー」と啼かれてあやうく体勢を崩しそうになります。それでもなぜフィールドワークに出かけるのかと問われたら、登山家が「そこに山があるから」と答えたのと同じく、「そこに人がいるから」なのでしょうか。人間と切り離して、言語だけを研究対象にするのであれば、研究室にいてもできますが、「どこで、どのように」使われているかは、現場に行かないとよく解りません。

具体例として、汚い話で恐縮ですが、エチオピアで現在調査している言語の「うんこ」を用いて少し説明してみましょう(こういう話は学生の食いつきがいいものです。授業中ウトウトしていた学生も、急に起き上がったりします。)。バスケト語(エチオピア南西部で話されている少数言語)で人間、犬、猫、鶏がする「うんこ」は「シージャ」と言い、「うんこする」という動詞は名詞から派生させて「シッイレ」と言います。それに対して牛の「うんこ」は「チョーラ」、ヤギや羊だと「ベツァ」と使い分けます。牛が「うんこする」は、「落とす」という意味の動詞を使って「トンギレ」と言いますが、ヤギや羊の場合には、やはり「ベツァ」から派生させた動詞「ベツィレ」を使います。「チョーラ」や「ベツァ」は、手で触っても汚いという意識が彼らには全くありません。それに対して我々人間どもが排出する「シージャ」は彼らにとっても汚いもので、決して手で触ったりしません。臭いんですね。なぜこのような区別をするかと言えば、利用価値があるかどうかの差なのです。牛の「うんこ」である「チョーラ」は牛が落としたばかりの「とれとれ」の濡れている状態のものが良く、乾いてしまうと利用価値がなくなります。新鮮さが命ですね。というのも「チョーラ」は家の壁面の隙間を埋めたり床を平らにするために使うからです。さしずめセメントの役割をしているのですね。またヤギや羊の「うんこ」である「ベツァ」は肥料として使うので、手で拾って集めて回ります。おそらく類似の例は世界各地で暮らしている少数民族が今も行っている普通の人間の営みなのでしょう。世界の人びとは皆「ECO」に暮らしているのですね。

ところで彼らの言語には「上下左右」はありますが、「東西南北」に当たることばがありません。山岳地帯に暮らす彼らにとって、方角は日常生活で重要でなく、「上に行く」や「下に行く」や「あっちに行く」で事が済んでしまいます。これも現場に行ってみないと解らないことです。碁盤の目のように道が整備された京都の町並みなど彼らには全く想像できない世界です。したがって彼らに「東入る(ヒガシイル)」「西入る(ニシイル)」「(北に)上る(アガル)」「(南に)下る(サガル)」のような住所があることを説明するのは至難の業ですね。

結局のところ、フィールドワークをするということは、自分自身の生活を顧みることに繋がるようです。異なる文化に触れることが自分自身の生き方を大きく揺さぶるものであり、非文明的と思われている地域にこそ、人間本来の生き方があるのかもしれません。

一応言語学を専門にしていますが、人間の生活に関わる研究というのが、机上の言語のパズル解きよりも、私にとっては遙かに楽しい時間です。現地に行くと、もちろん彼らと大喧嘩もしますが、その一方でとても穏やかな気持ちになり、気がつくとよく笑っています。

バスケト人の家に塗られる「チョーラ」