歴史は何を語り得ないのか―史鉄生『記憶と印象』の感想―(文:池田勇太)

 大学院に通っていた頃、アボリジニの歴史についての方法論的考察をまとめた異色の博士論文を、ゼミで読んだことがある。穂苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(御茶の水書房、2004年)という本で、その文体からも内容からも、それまで四角四面の学術書に博士論文のイメージを抱いてきた私には予想外の面白さだった。いまは手許に本がなく、うろ覚えなので正確でないかもしれないが、この本の著者は、アボリジニのおじさんが伝承してきた彼らの「歴史」を敢えて「歴史」として見ることで、通常の歴史学的方法論に一石を投じようとしたものだったと記憶している。それが成功していたかどうかはともかく、実証を重んじる歴史学者が、文字を持たない人々の信じてきた「歴史」を、文書なり物なり、あるいは民俗学的手法なりを駆使して、何らかの確かさのある「歴史」から排除してきた行為に対し、疑義を呈した仕事だった。
 実証的な「歴史」、裁判で証拠を出して事実を確定していくような「歴史」だけが、「歴史」ではないのではないか、というのが著者の提起した一つの論点だったと思う。
 いまになって思うに、この著者がアカデミックな検証の刃から守ろうとしていたのは、人が実感として抱く「歴史」、あるいは生に密着した夢想ともいえる「歴史」だったのかもしれない。
 こんな感想を抱くようになったのは、昨年秋に史(シー・)鉄生(ティエション)(1951-2010)の『記憶と印象』(栗山千香子訳、平凡社、2013年)を読んだためである。先年没した中国の作家が晩年に書いた、回想録風の作品である。味わいが深く、心に残る文章だった。
 回想録とはいっても、読み始めて気がつくのは、著者の史鉄生が自らの記憶と印象を「歴史」に収斂させまいと鋭く意識していたことだ。この本の第一部のエピグラフには、次のように書かれている。

     過ぎし日々について私が書くことができるのは、私の記憶と印象だけだ。私は史実をたどろうとは思わない。どこまでたどったらついに史実にたどりつけるのか、私は知らない――たどってみたところで、それらはすべて記憶と印象にほかならないのではないか。ある高名な物理学者が言った。「物理学が私たちに教えてくれるのは、世界とは何かではなく、世界について私たちが語れるのは何かである」この言葉に私は勇気づけられた。(8頁)

 この本では、ここで述べているように記憶と印象を主にして、史実についての穿鑿をしようとしない。そこが史実と体験とをすり合わせて書かれる他の回顧録と違うところだろう。
 彼は、史実にはたどりつけないのではないかと述べている。客観的に不動の真実として、あるいは経典のように、「歴史」は存在するのではない。「それぞれの心情にしたがえば、歴史はもともと確定できるものではない」と彼はいっている(65頁)。
 もちろん、ここにはさまざまな議論の余地があるだろう。ただ、一応ここで留意しておくべきこととして、彼は論理的に史実の確定が不可能だとか、歴史とは歴史家によって語られる物語なのだとかいうような、学者好みの議論をしているわけではないということである。彼は個々人の「心情」に即して見てみれば、決して私たちの生は歴史書に回収されるものではないはずだといっているのだ。
 だから、史鉄生は敢えて自らの印象を壊すような行為――「歴史」を探ろうとする――に踏み込むことを、ためらう。それは主義というよりも、懼れなのだと思う。懼れているのは、私たちの日々を織りなしているいくすじもの糸や折り目、そしてさまざまな綾に、彼が敏感であるためで、それらが野暮で暴力的な「歴史」に無遠慮に織り上げられてしまうことを、痛覚で感じていたからだろう。
 例えば、彼の母方の祖父「姥爺(ラオイエ)」は、史鉄生が生まれるよりも以前に世を去っていたにもかかわらず、幼年期の彼を脅かしつづける影であった。十五歳のある日、母親は彼にその影がどのような人であったかをうち明ける。歴史家風にまとめれば、地主の息子だったその人は、抗日運動に身を投じ、ある年日本人につかまって半殺しの目にあったことで、村人たちに抗日であることが知られた。日本との戦争が終結すると、彼は兵隊を率いて入城した。彼は村に幼稚園と夜間学校をつくるような先駆者であったが、国民党であったため、元部下の讒言により反革命鎮圧運動のなか処刑された――およそこんなスケッチになるのだろう。ところが史鉄生は、この暗い噂話をそれ以上に踏み込んで尋ねようとはしない。「姥爺」という人形(ひとがた)をした空白を一つの物語にしてしまうことで、彼の幼年期に接していた人々の暗い恐れや空気が消し去られてしまうことを、彼は懼れたのである。
 事実を調べて物語にする、ということでは、彼自身が作家であることから、常にその誘惑を感じていたことだろう。しかし彼はこの本のなかでそうした態度をとらない。彼の「大舅(タージウ)」(母方の長兄)は父親が取り決めた婚姻に不満で花嫁に一指も触れずに家出をし、一度だけ妹(史鉄生の母)のところへ顔を見せた以外は、四十数年間音信不通であった。史鉄生が幼年の日、彼の前に突然現れた「大舅」はまぶしく輝くばかりの青年将校だったが、その青年将校は数十年を経て、白髪の猫背の老人となって戻ってきた。彼はかつて棄てていった妻とともに暮らし、老人性痴呆症を患って何もわからなくなった彼女を日々介護しつづける。史鉄生はいう、「その四十数年間を、もしそうしようと思えば、すみずみまで尋ねることもできるだろう。(略)しかし、私は想像だけにとどめておきたい。なぜなら、おそらく実際の事柄をなぞることが書くことの根本にある目的ではないからだ」と(61頁)。我々職業的な研究者と違い、彼は書くことに自覚的である。
 なお、史鉄生の「歴史」回避を考えるには、彼が生きてきた20世紀後半の中国社会において、それが露骨に暴力をふるっていたことにも思いを致す必要があるだろう。この本のなかに散見するだけでも、いかに人々が自らにまとわりついた過去に苦しめられていたかがわかる。彼の祖母は、祖父が若くして亡くなってから女手一つで三人の子を育ててきた。しかし彼女は地主の家に嫁いで「搾取飯」を数年食べた反動階級という烙印を捺され、日陰で働き続けなければならなかった。また彼が教わったB先生は、相思相愛の女性と結婚することができなかった。自らの「出身の悪さ」を自覚していたからである。「出身の悪さ」とは、搾取階級だったということだ。そしてB先生が結婚した相手は何代も続いた貧農で「実にいい」出身だったという。こうした社会においては、過去を問うこと、あげつらうことが、そのまま誰かを攻撃する行為でもあり得たのである。

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 では、史鉄生が記憶と印象によってたどろうとしていたものは何だったのだろうか。
 珊珊(シャンシャン)という同じ四合院(中庭を中心にロの字型に平屋を配した北京の伝統家屋。ここでは集合住宅として使われていた)に住む女の子が、日が暮れても家に帰らなかった夜、彼は彼女を小学校に見つけた。アイロンでベッドとワンピースを焦がしてしまった彼女は、継母にぶたれるのが怖くて帰れなかったのだ。校庭の隅でひとり膝を抱える少女に帰宅を促しても、彼女は黙ったまま動かなかった。ところが、「私の印象の中では、このとき珊珊は立ち上がり、そして校庭の真ん中まで歩いていき、ポーズをとり、軽やかに踊り始めた」(152頁)と著者は筆をすすめるのである。それが事実ではないことを、知っているにもかかわらず。
 史鉄生がいう「印象」とは、彼の心にやきつけられたイメージであって、その夢想は、彼にとって切実なものだった。珊珊や、傷つけてしまった彼の祖母、また自らの母を衆人の前で鞭打った少年など、それらは過ぎた時間の断片に閉じ込められて、あてどもなくさまよう魂のように、彼の心に浮かんでくる。記憶にからむ印象によって、彼はそのときそのときの、記憶のなかで悲しみに沈む孤独な魂に寄り添おうとするのである。第二部のエピグラフには、こんな言葉が書かれている。

     歴史のどの瞬間にも、無数の歴史が連なり、無限の時間がつながっている。だが人は生を受けたときから孤独であり、そのため無数の歴史と無限の時間はばらばらのかけらとなっている。たがいに埋もれた心は、孤独の中で祈り、ばらばらな場所で眺め、あるいは夢の中で結ばれることを望んでいる。記憶は、だから一つの囲いであり、そして印象は、囲いの外の大空なのだ。(108頁)

 孤絶した魂は、どこで結ばれるのだろう。印象という広い空に自由を得て、ばらばらな私たちの心はつながることができると、彼は信じていた。そしてそれを可能にするものは、祈りだとも。
 私たちは日々のなかで、たがいを傷つけたり、いうべき言葉を発せずに別れたりしている。しかし私たちが孤独な存在であったとしても、いやそうであればこそ、たがいに埋もれた心は結ばれることを望んでいると、彼はいうのである。記憶と印象をたどって、彼はすでに別れた人々のもとへ心を寄せる。そしてそれは多くの場合、白昼の常識が支配する世界とは別の世界で行われているようだ。
 史鉄生は半生を病とともに過ごした人である。そして病は彼をベッドと車椅子に拘束しつづけた。彼にとって、現実とはそういうものだった。そんな彼は知っていたのだ。「時間や習慣が私たちを制約し、デマと変わらない世論が私たちを現実の中に陥らせる。(略)人々はみな、白昼の魔法の下で緊張した平板な役柄を演じている」(15頁)。彼にいわせれば、私たちが生きている現実とは、魔法にかけられた姿なのである。

     だから私は夜を、闇夜を、静寂の中に自由が訪れることを望む。(略)もう一つの世界は生気にあふれ、夜の声がどこまでも果てしなく広がっている。そう、それこそが書くということだ。(略)一心に望むのはただ、この自由な夜の散策であり、すべての魂の真のありかへ向かうことなのだ。(16頁)

 史鉄生にとって、自由は夜の静寂のなかにあり、書くことのなかにあり、そしてそのなかで自由になった心は、他の心に出会うことができるのである。
 こうしてみると、私たちが生きている現実、日常とは、本当は私たちが感じているよりもずっと豊かで広い宇宙なのかもしれない。史鉄生のいう「白昼の魔法」が、それらを単調な世界に見せているのだと想像してみたならば――なるほど、アボリジニのおじさんの伝承が「歴史」として見えないように、私たち歴史家には、実に多くのものが見えていないのかもしれない。