研究の「エフォート」(文:富平美波)

 国立大学の法人化以降、科学研究費補助金の応募がほぼ義務化に近い形で奨励されるようになり、私もその応募書類を書く経験をして、初めて「エフォート」という言葉を知った。「エフォート」とは何か。申請書類の「作成上の注意」から引用してみよう。 

〈「エフォート」欄は、研究代表者及び研究分担者の時間の配分率を記入すること。時間の配分率は、総合科学技術会議におけるエフォートの定義「研究者の年間の全仕事時間を100%とした場合、そのうち当該研究の実施に必要となる時間の配分率(%)」により決定すること。なお、「全仕事時間」とは研究活動の時間のみを指すのではなく、教育活動を含めた実質的な全仕事時間を指す。〉 

 「(必要となる)時間数」ではなくて「配分率」と称するあたりがミソだろうが、実際には、これ位の比率で当の課題を研究する暇があるであろう、という意味の数字が、ここに現れることになる。 

 私は、ずっと15%と記入し続けている。だがこれは、一種の責任表明みたいなもので、実際には、そんなに出来ていないだろう。当今、御多分に漏れず「雑用」が増えた故と想像されるかもしれないが、それだけでもない。大学教員の業務を形成する「教育」・「研究」・「運営」の三本柱のうち、最もデリケートなのが「研究」で、私の場合、ちょっとしたことで折れてしまうのだ。 

 (1)体調を崩す。

 先だって、持病のアレルギーが重くなり、それなりに苦しかった。それでも授業は――マンネリの極致に陥るとはいえ――けっこう穴を空けずに出来る。学会開催校のスタッフも何とか勤まったのだが、研究のための作業は全く行えなかった。

 (2)気力が萎える。

 私の専門は中国の音韻学である。濃密であるとともに、歴史認識を含めて困難な課題も抱える隣国との関係。両国の人心が離れ始めると、理屈抜きで心が痛む。また、世代的にも既に若くはないので、変化する時代にあって、一個の「歩く不良債権」であるかのような己の姿を、見極めた気分に陥ることが、ある。

  そのような際、短期的な対症療法としては、もう「時に癒される」一手しか無いので、遠くに行っていることにする。いつぞやは、岩波文庫で古代ギリシアの哲学や詩などを読み、次いでふとモンテーニュの『エセー』(邦訳)を読み出したら、これに魅了されてしまった。訳者の方と出版社に御礼を申し上げたいくらい(さいきん第4巻が刊行された―白水社)であった。 

 でも、まるで人が故郷を忘れられないように、常に心の中であこがれ続け、元気を取り戻すと必ず帰ってくるのが、研究――むしろ「勉強」と呼びたいが――である。研究のエフォートがたとえ5%まで下がろうとも、すべての原点はそこにあり、教育も大学の運営も、そこから芽生えた枝だという感覚が、活き活きとしてある。

  復調の契機は、必ずしも自分でつかむとは限らない。時間的なゆとりは勿論必要だが、それ以外に、他人から必要とされる経験が有効だ。その為にも、学期中きちんと何かの授業を担当することは――その間は研究ができないのだが――けっこう大切なように思う。また、思いもかけない領域の先生から参考意見を求められたり、学内に出来た研究所と少しだけ関係して、何か話したりさせられることが、元気の素になることもある。

  さて、夏休みも間近。再び「勉強」したい気持ちが甦ってきた。思えば、毎年同じリズムの繰り返しだ。大学ごとに、其処の先生方が異口同音に、研究に集中できる時期が「春しかない」だの、「夏と春しかない」だのとおっしゃる状況が見られるが、それぞれの環境に応じて、誰しも同じようなパターンに落ち着くのだろう。

 それでも、仮に、エフォートが毎年100%の部署に行きたいかと問われたら、私はお断りしたい。そんな苛酷な環境に耐えられる器ではなし、そんな値打ちも持ち合わせないし、そして何より、「三本柱」が揃っていないと、「勉強」が下手になりそうな予感がするからだ。「カンが働かない」・「ねばりがなくなる」・「心が浅くなる」。あくまでも私の場合のことだが。だから、やっぱり、此処にいたい。

(次回は村田先生です。)