『坊っちゃん』と山口大学(文:真木隆行)

私の専門は日本中世史である。ただし「リレーコラム」ということで、平野芳信先生からのバトンをうけ、ここでは小説に関連するお話しをさせていただきたい。

数ある小説の中でも、夏目漱石の『坊っちゃん』は、多くのかたが思春期に読んだ経験をお持ちであろう。ところでこの作品については、40歳前後になって読みなおすのがおもしろい、という提言を何かで読んだ記憶がある。20年余り前の記憶なので詳細は失念したが、要するに、本書執筆時の漱石の年齢がそのころにあたり、かつての愛媛県松山における英語教員経験を回想しながら書いたと考えられるからであろう。ちなみに、松山にあった愛媛県立尋常中学校(松山東高校の前身)に漱石が着任したのは1895年、彼が28歳のころ。やがて『坊っちゃん』を執筆し、これを『ホトトギス』に発表したのは1906年、彼が39歳のころであった。これを同世代の立場で読みなおすとどのような感覚か、実際に試してみようと、ずっと心待ちにしていた。松山に住んだ経験のある私にとっては、なおさらであった。

そんな思いが高まりつつあった数年前のある日、人文学部の根ヶ山徹先生から興味深い論文を教わった。かつて人文学部におられた岩城秀夫先生が、最終講義をもとに活字化された「横地石太郎と朝鮮版『読書続録』」(『中国人の美意識』創文社、1992年)である。これによれば、愛媛県立尋常中学校に漱石が在任中の同校教頭であった横地石太郎先生は、『坊っちゃん』に登場する教頭「赤シャツ」のモデルだったとする説があるいっぽう、実は1900年になって官立(旧々)山口高等学校(=山口大学の前身)に転任し、やがて同校後身の官立山口高等商業学校の校長を勤めていたという経緯を知った。しかも漱石夫人の親類にあたるという。『坊っちゃん』と山口大学との思いがけぬ御縁を知って、ますます読みなおす楽しみが加わった。

ところが、山口大学との御縁はこれに留まらない。『坊っちゃん』の場面設定の「四国辺の中学校」が、当初「中国辺」と書かれていた事実は周知のとおりだが、実は漱石は、松山に着任する前後に、官立山口高等中学校(上述の官立山高の前身)への就任を何度も誘われていた、という事実がある。しかも同校では、1893年11月に大規模な寄宿舎ストライキ騒動が起こっていた。この情報は全国的に伝わっており、この事件こそが『坊っちゃん』に描かれたあの寄宿舎騒動のモデルだった、とする説が最近浮上している。また、ときの同校教頭で数学の隈本有尚先生は、漱石が大学予備門に通っていたころの恩師にあたる。この隈本先生こそが、『坊っちゃん』に登場する数学教員「山嵐」のモデルだったともされている。これらの新説は、河西善治『「坊っちやん」とシュタイナー 隈本有尚とその時代』(ぱる出版、2000年)によって説かれ、田村貞雄「夏目漱石『坊つちやん』の舞台 ―山口高等中学校寄宿舎騒動―」(『山口県地方史研究』101号、2009年)も、この河西説を支持している。少なくとも漱石と山口大学の前身校とは、このように意外な接点があったのである。

ほかにも、関連する御縁に接した。昨年2010年3月、私が委員としてかかわる大内氏歴史文化研究会の恒例講演会において、中近世武家儀礼の研究者として名高い二木謙一氏をお招きし、御講演いただいた。そのお接待の際にお伺いしたところによると、御祖父様は、文化勲章を受章された医学者の二木謙三氏であり、しかもなんと上述の官立山高の卒業生という。調べてみると、謙三氏の恩師にあたるという北条時敬先生は、上述の寄宿舎騒動後の混乱を収束させた岡田良平校長(山口高等中学校最後の校長、同校後身の官立山高の初代校長)の側近にあたり、その後継校長でもあったことが判明した。いずれも、横地先生が松山から官立山高に転任する直前のことである。

以上のような御縁の連鎖によって、『坊っちゃん』とほぼ同時代における山口大学の前身校(山口高等中学校→山口高等学校→山口高等商業学校)の歴史を思いがけず学ぶことができた。これをふまえ、昨年の長期出張による東京滞在を機に、仕事の合間を見つけてついに読み直した。『坊っちゃん』の郷里の東京でこれを読む、ということにまでこだわったのである。漱石執筆時の年齢を若干超えたものの、20年余りあたためてきた課題の実現に、感慨ひとしおであった。改めて実感できたのは、読み手側の受け皿の変化である。古今東西、とりわけ青少年に読書をすすめるのは、読書の直接的効用だけでなく、このような再読の楽しみを将来に残してあげるためでもあると思う。ぜひお試しいただきたい。

実は、私が専門とする歴史学についても同様のことがいえる。歴史観は、歴史を見る側の人生観・世界観・時間感覚・想像力がそれぞれ成熟するに伴って、バージョンアップするものである。様々な経験を重ねることによって、過去の見えかたが変わってくる。自己の内面の成熟過程を実感していただくためにも、ぜひ若いうちから歴史学に接してもらいたいと願う。

最後に、上述の横地先生について補足しておくと、彼は物理・化学の教員でありながら、古墳を発掘するなど、実に多彩なかたであった。上述の岩城論文によれば、山口に着任した彼は、山口の洞春寺(毛利元就の菩提寺)が蔵する朝鮮古版本の価値にもいち早く注目し、古典籍の調査をおこなってそれらの散逸を防ぐ努力を怠らなかったようである。彼のそのような人物像には、『坊っちゃん』の「赤シャツ」のイメージと重なる部分が本当にあったのかなかったのか。いずれにしても、かつて横地先生が注目した洞春寺開山和尚ゆかりの古典籍群(県指定文化財)は、このほど修復を終えた。今年2011年秋に開催される山口市歴史民俗資料館の特別展において、それらは他の寺宝とともに公開される。この特別展も、あわせておすすめしたい。