卒業生へのエール(文:村上 龍)

 世間一般がそうであるのと同様に、大学においても、3月というのは制度的な「別れ」の季節です。われらが人文学部からは今年も、去る3月20日(金)に多くの卒業生が巣立ってゆきました。今回はこの場をお借りして、彼ら/彼女らに私なりのエールを送りたいと思います。
 私は美学という、「芸術をおもな対象とする哲学の一分枝」に携わっておりますため、その引き出しのなかからネタを探すことにいたしましょうか。フランスの思想家モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961年)がそのキャリアの初期に手がけた論考に、「セザンヌの懐疑」(1945年)があります。この論文の主題は、「作家の生涯は作品の意味を決定するか(作家の人生によって作品を説明することは妥当か)」を問う点にあるのですが、そうした問いに対し、彼はきっぱりと否定的な回答を与えます。

    作られるべき作品がこのような生を要求した、というのが正しいであろう。セザンヌの生は、その発端から、いまだ将来のものである作品に支えられることによってしか、均衡を見いだすことができなかった。彼の生は、この作品によって企てられたものなのである(Maurice Merleau-Ponty, Sense et non-sense, Paris, Gallimard, 1996, p. 26)。

作品がそれに先立つ画家の生によって規定されると考えるべきではなく、むしろ、来たるべき作品のほうこそが、画家の生を「企て」ていたのだと言わなければならない。なるほど、将来の作品は、「予兆として彼の生のうちに示されて」(ibid.)はいよう。ただし、それもあくまで、「回顧的にみれば、いまそうなっているところのものが、過去のうちに告知されているのを見いだせる」(p. 28)というのに過ぎない。メルロ=ポンティはそのように言うのです。
 芸術創作について思索するなかで示された、過去・現在・未来の関係をめぐるこの興味ぶかい視点は、私たちの人生一般にかんする洞察としても、読み替えられるのではないでしょうか。私たちは通常、自らの過去が現在を準備し、自らの未来は現在によって方向づけられるものと考えます――たとえば、過去の有意義な(もしくは、意義の乏しい)受験勉強が、大学合格という(もしくは、受験失敗という)現在を準備していたかのように。あるいはまた、現在の成果に満ちた(もしくは、成果の乏しい)就職活動が、自分を輝かしい(もしくは、不透明な)未来に導いているといったように。しかし、それと同時に、私たちの人生には、むしろ現在が過去に介入し、未来が現在に働きかける面がある、と考えることもできそうです――たとえば、大学合格という(もしくは、受験失敗という)現在が、それに先立つ受験勉強を有意義なもの(もしくは、意義の乏しいもの)として意味づけるというように。あるいはまた……。
 卒業生のなかには、もしかしたら今現在、なにがしかの失意を抱え、焦燥感に駆られているという人がいるかもしれません。でも、貴方は他ならぬ自身の未来によって、現状を挫折から転機へと「企て」直すことができるのです。他方、いまは勝ち組の気分でいる人たちも、貴方の現在を失敗として書き換える羽目に、どうか先々陥ることのなきよう。そして願わくは、すべての卒業生の未来が、山口大学人文学部で過ごした数年間を、喜ばしき「予兆」で溢れかえる過去としてくれますように!