「しがらみ」の話(文:速水 聖子)

 今年のある授業で、ネットカフェ難民やホームレス問題を扱った「社会的排除」(岩田正美、有斐閣、2008年)を皆で読んだ。貧困や格差の問題を経済学的側面からだけではなく、社会への参加の欠如や社会関係からの排除の結果としてとらえるところが「社会学的」といえる好著である。若者の失業や就職難が大きな社会現象となっている現在、本著を通して学生からもさまざまな意見があった。印象深いものを紹介してみたい。
 ある女子学生は島根県の地方公立高校から山口大学に進学している。出身高校では卒業生の3分の2が進学、3分の1は就職である。大学生よりも高校生の就職がさらに厳しいといわれる中、地元では高校の先生はもとより、地場企業や地域社会全体をあげて就職先を確保し、フリーターになる卒業生を作らない努力が続けられている。そもそもフリーターの受け皿になるコンビニやファーストフード店がないのです、と彼女は笑った。
 この話はいわゆる田舎の「しがらみ」の話でもある。しがらみが嫌で、田舎を離れて都会に向かう若者たちによって日本の高度経済成長は支えられてきたともいえよう。都市は若者たちの夢をかなえる機会と自由さに恵まれ、成功や名誉を得て故郷に錦を飾る者も多い。その反面、都市は弱肉強食の競争社会であり、何よりお金がモノを言う場所でもある。富の集中がある一方で、貧困問題が際立つのも都市である。貧困と社会参加や社会関係の欠如が直結してしまうところに問題の奥深さがある。
  「しがらみ」の人間関係は面倒くさいものだが、この関係は勝ち負けや金銭の合理性だけで切れてしまうものではない。どういった場合でも、その人を受け入れる懐の深さというものも持ち合わせているのではないだろうか。人が生きる社会には、努力が認められ、やりがいが得られるための仕組みとして業績主義や報酬の高低が必要な場合ももちろんある。しかし、人の生き方の価値は、いうまでもなく競争の結果やお金の多寡で決まるものではないし、何より人の社会関係は非合理的なものでありつつ、その人の人生を支えてくれるものでもある。家族や地域社会という「しがらみ」は個人を社会につなぎとめて、「社会的排除」から救う機能を持ちうる。
 人文学部の卒業生は山口からさらなる都会に出るのではなく、地元を中心に地方に戻る学生も多いと聞いている。コンビニやファーストフード店がなく、多少不便であっても、人を使い捨てにしない「しがらみ」の中で自信をもって人生を歩んでいってほしい。