言語オタクの妄想(文:武本雅嗣)

 理論的な話はおくとして,タイムマシーンが本当にあって,もしどちらか一方にしか行けないとしたら,過去に行くか,それとも未来に行くか。理系の人の多くは,テクノロジーの発達した未来の世界を見に行くだろう。それに対して,文系のとりわけ人文学の研究者の多くは時代を遡る方を選ぶはずだ。史学や考古学の専門家は自分の説や見解が正しいかどうか確かめに,また,哲学者や文学者は,たとえばプラトンと対話をしたり,孔子の教えを聞いたり,シェイクスピアの芝居を観たりしに,喜んでそれぞれの時代に行くことだろう。

 自然言語・人間言語に興味のある私も,やはり過去行きのマシーンに乗る。まず一気に,ヒトへの進化が始まった700万年前のアフリカへ飛び,そこからゆっくり戻りながら,どのヒト集団が文法的な音声言語を使いだしたのかを確認し,その後の人類の進化に伴う言語の進化の過程を概観したい。途中少なくとも7回,次のあたりで降りて,ヴォイスレコーダーを携えてフィールドワークを行う。① 400万年前のすでに2足歩行をしていた猿人アウストラロピテクスや,② 250万年前の手先の器用なホモ・ハビリスや,③ 150万年前の初めてアフリカを出て原人となるホモ・エレクトスが,仲間とどのようなコミュニケーションを行っていたのかを調べる。また,④ 交雑によって我々もその血を受け継いでいる可能性がある,数万年ぐらい前までヨーロッパやアジアで暮らしていた旧人ネアンデルタール人が,発声にかかわるその身体的特徴ゆえに母音を十分調音できず,その言語の文法も単純なものであったという説が本当に正しいのかどうか確かめたい。それから,⑤ 20万年ほど前にアフリカで誕生した新人ホモ・サピエンスの最初の言語の基本語順がどのタイプだったのかを突き止めたい。現在世界の言語の約45%を占めるSOV型(SVO型は約35%)がかつては大半だったとみられ,アフリカに関しては,北部以外の語族の祖語はSOV型だったと考えられているが,なかでも,ミトコンドリアDNAの分析結果からもっとも古いアフリカ人とみなされているコイサン人種の言語がやはり元はSOV型だったと推定されることから,私はSOVが人間言語の原始型だったのではないかと思っている。事実はどうだったのか,是非知りたい。さらに,⑥ 8万年前から5万年前にかけて,現生人類が革新的な石器加工を始めたり,本格的な出アフリカを可能にするような船を造りだしたり,芸術活動を行うようになった,いわゆる文化のビッグバンと言語の進化がどのように連動したのか見極めたい。ヒトは「知性あるヒト(ホモ・サピエンス)」になってからも10万年以上,250万年前と大差ない石器を作り続けていたことから,その間認知能力はあまり上がらなかったと考えられるが,この調査によって,言語能力は認知能力とは関係なくモジュール的に(独立して)発達してきたのか,それとも言語能力と認知能力は相互作用して高まってきたのかが判明するし,物理的・抽象的な構造化の能力の向上と言語の構造の複雑化との相関関係や,抽象的な概念化や心的処理の能力の獲得とメタフォリカルな言語表現の出現・増加との相関関係についても明らかになる。そして最後に,⑦ 我々の祖先が壁画を描き始めた3万5千年前から数千年前にかけて,記号として絵文字が使用されてから様々な文字体系が発明されるまでを見届けたい。

 人類の化石や石器は発掘され続けており,次々と我々の祖先の足跡が明らかになってきているが,それに比べると,人類史におけることばの物的証拠は微々たるもので,ヒトの具体的な言語活動の歴史についてはほとんど何もわからない。言語と直接結びついた文字体系は,今のところ,5200年ほど前のものしかはっきりしないようだし,まして音声はわずか150年ほど前の記録しか残っておらず,人類の進化に伴うヴァーバルコミュニケーションの進化や言語の発現過程については推測するほかない。だから,このような満たされない好奇心をもっている私は,つい妄想し,いろいろと思いを巡らせてしまう。もし本当に,タイムマシーンに乗って「在外研究」に出かけることができたら,帰ってこれなくても本望である。もっとも,320万年前のルーシーちゃんにインフォーマント調査の協力をお願いしたとたん,ルーシーパパが飛んできて,捕食されてしまうかもしれないが……