生々しい夢とシンボルに満ち溢れる、バリの凧揚げ儀礼

私は最近、バリの「生活の中の宗教」について研究している。私自身、バリの出身ではないが、この島には、学生時代からいろいろな目的で、何度も訪れている。それでも、私にとってバリの人びとの日常生活は、どれをとっても過激で極端なものとして映り、毎回、不思議としか言いようがない異様な時空間にいざなわれる気分になるのだ。
今回は、私が今年の夏休みに見てきたバリの様々な生活場面から、「凧揚げ大会」について、イメージと感想を交えて紹介しよう。
彼らは一体何のために、あんなに手の凝った、大きな凧を造り、あれほどまで真剣に、そして大げさに、ときには興奮しながら、凧揚げ大会に臨むのだろうか。どう見ても、容易に飛ばして気軽に楽しめるような凧揚げ遊びの世界には見えない。

しかし私は意外にも、この疑問に対する答えの手掛かりを、山口県山陽小野田市で例年行われている、面白い凧揚げフェスティバルからヒントを得ることができた。バリの凧揚げが、単なる遊びではないということに私が気づくのは、少々時間を要した。というのも私自身、小学生を過ごしたインドネシアのジャカルタ(バリとは大分異なる社会・文化圏)で、兄弟や近所の子供たちとよく凧揚げをして遊び、この遊びの醍醐味をよく知っているつもりでいたせいでもある。山口の人たちが年明け早々の寒い中、家族ぐるみで凧揚げフェスティバルに臨むのも、単に凧揚げそのものの面白さに引かれるからではないはずだ。そこには人びとの生活に欠かせない、様々な価値・希望・意味・シンボルが、慣習化した遊び(またはゲーム)として凝縮され、そして凧揚げという“儀礼”は、そうした見えない精神的なアクセントやニーズを相互に確認しながら表現したり満たしたりする、場ではないだろうか。

バリでは、凧によって運ばれる価値・希望・意味・シンボルは、とりわけ各地域で行われる定例行事としての凧揚げ大会の場合、集団に関するものが顕著のようだ。彼らは、バンジャルと呼ばれる慣習村の枠組みを単位として、大会に臨む。つまりこの凧揚げ大会は、各バンジャルの代表選手が競い合う場なのである。といっても、一つのバンジャルを代表するチームは、応援や楽器演奏などを担当する人たちを含め、数十人から数百人規模の大軍をなす場合がほとんどである。彼らは、審判と観衆の前で披露する、たった数分間の凧揚げのために、数か月も前から、大人と子供が一丸となって、大型凧の制作にとりかかるのである。大会当日、多くのチームは、海岸に位置する会場から遠く離れた村から来るため、トラックとバイクのコンボイを形成して移動する。こうした村の威信をかけた行列は、この国の国政選挙の運動にも匹敵する賑わしさだ。バンジャルという共同体の精神が凧の様式のすべて(形、素材、色、模様など)に託され、その凧が空を飛ぶとき、天上から堂々と見つめる巨大な鏡の如く、人々は自らの不可視の内面を、まぎれもないリアリティーとして目撃することであろう。

しかし、だからといって凧揚げの、遊びの真髄である、人間を介した天と地(大会やフェスティバルの場合はさらに、天と地と海)の“つながり”が、バリでは軽んじられているわけではない。天空に属する凧が、一本の糸を通して操られるというメカニズムは、人間に、未知なる空の正体を、確実な手ごたえとして、体験したり一体化したりさせてくれるものである。そしてバリのように、自らの集団にまつわる価値・希望・意味・シンボルが、抽象的なイメージの次元のものとして凧に重ね合わせられている場合、人間を主体とする天・地・海のつながりは、こうしたイメージ(夢)を自然界に解放し、現実化したものとして人々に体験されているのではないか、と私は、部外者ながら何となく薄々感じるのである。<文:ジュマリ・アラム>