はしごする話(文:柏木寧子)

山口市に住むようになって聞いた話によると、当地では、禅寺とカトリック教会を「はしご」して初詣をすることがさほど珍しくないそうである。国宝五重塔のある瑠璃光寺に参り、薬師如来を拝んだり、塔や庭を眺めたりしたあと、そこからほど近いサビエル記念聖堂を訪れて、神父による祝福にあずかるのだと聞いた。市の中心部の丘に建ち、15分毎に鐘の音を響かせている聖堂は、20年前に全焼した旧聖堂に替わって建てられたものである。瑠璃光寺の塔も見事だが、ナバラのサビエル城を模した旧聖堂も、折々に美しい景観で市民に親しまれ、その焼失は大変惜しまれたという。信徒であるなしにかかわらず市民が初詣に行くキリスト教会というのはあまり聞いた覚えがなく、興味をそそられた。

寺にも教会にも詣でる市民にならって、というわけではないが、日本の旧い宗教的物語を読むかたわら、気の向くまま『聖書』の物語を読むこともある。どちらの物語世界も奥深く魅力的で、読みながらときに、双方のつながり合いを意識することがある。

たとえば、どちらにも大変悲劇的な、困惑させられるほど悲劇的な終結をもつ話がある。日本の宗教的物語では、説経節「愛護の若」など顕著な例だろう。この終結をどう理解したらよいのか、ずっと気になりながら解けずにいる。主人公が痛ましく理不尽な死を遂げ、その死の真相が知れるや、主人公の最期にかかわった人々がすべて、敵味方問わず身を投げ、一〇八人がいちどに死んでしまう。「前代未聞に、ためし少なき次第」だというので(つまり、あまり衝撃的だからということだろう)、人々は主人公を山王大権現という神として祀った――そう述べて終わるのだが、実生活上、この神を祀っている人々はともかく、物語の読み手としては、ありがたくめでたい落着という気がしない。圧倒的カタストロフィーのわけのわからなさに茫然としたまま終わる。

『新約聖書』のイエスの物語も、数年前「マルコによる福音書」を読み返して驚いたことに、極めて悲劇性の強い筋運び、圧倒的カタストロフィーといってよい終結をもっている。伝説や教えをあまり挿入せず、主人公の行為を端的に連ねるこの福音書の叙述は、使命意識への目覚めに始まり、活動と挫折、受苦を経て刑死に至る主人公の歩みを、緊迫感をもって、一直線の下降として描いている。終結は痛ましい限りの死である。「愛護の若」と異なり、関係者一同が身投げすることはないが、裏切って逃げた弟子たちが受けた衝撃の大きさを、読み手は充分推測することができる。空になった墓が最後に描写され、復活が示唆されるとはいえ、あくまで示唆にとどまり、悲劇を打ち消すどんでん返しにはならない。

読み手にとって受け容れ難い終結を描いている点で、これら二つの話には似たところがある。核となった史実がどうあれ、物語るからにはそうあってほしい・そうあるべき終結を描いて、読み手を悦ばせてほしいのに(たとえアンハッピー・エンディングでも)、痛ましすぎる終結がむしろ不安をよび起こす。だが、二つはいずれも宗教的地盤をもつ物語である。物語が一旦の終結に至ったのち、人々の現実の生、信心の次元で続きが生きられているのかもしれない。滅び去ったままであってほしくない死者が、人々の信心のなかで神となり、あるいは復活者となって顕れるとき、ようやく不安がおさまり、物語は真の終結に到達するのかと思う。

「マルコによる福音書」を読み返す面白さを教えてくれたのは、新しい翻訳による『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳)だが、この翻訳はいわゆる隣人愛や神の愛についても、興味深いイメージを与えてくれている。マルコのものに限らず、福音書を読んで驚くのは、イエスという人がしばしば「腸(はらわた)がちぎれる想(おも)いに駆られ」ていることである。たとえば、らい病を患う人が決死の覚悟でやって来て救いを求めたときや(マルコ1-41)、牧人のない羊のような、迷える群衆がイエスを慕い集まったのを見たとき(同6-34)、イエスはこの想いに駆られる。また、イエスがよきサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえを語るときも、半殺しの目に遭って倒れている人を見た瞬間のサマリア人や(ルカ10-33)、放蕩息子の帰還をめざとく見つけた瞬間の父について(同15-20)、同じことばが使われている。苦しむ誰かを見て「腸がちぎれる想いに駆られ」、とっさに行動を起こすのが隣人愛であり、そのモデルは神の愛だという。‘万人のためもっともしばしば断腸・共苦する存在が神である’ととらえてみると、比喩はしょせん比喩としても、‘神が愛である’とはどういうことであるのか、イメージをつかみやすくなる気がする。

ここで思い浮かぶのは、日本の宗教的物語が描く菩薩も、他の生き物(人間とは限らない)のためによく血を流すことである。飢えや渇きに苦しむ生き物があればわが身の肉でも脳漿でも施し与え、困窮する者に乞われるなら、血を流すにも等しい涙を流しつつ、わが子でも妻でも施し与え、他の苦を抜くため自らすすんで苦しむのが菩薩である。もっとも、菩薩の慈悲行の場合、隣人愛の例と比べると、感情に衝き動かされるニュアンスはあまり目立たない。菩薩のもうひとつの徳、智慧の、慈悲と連動する様子がしばしば描かれるためかと思う。それでも「我が肝・心を割(さ)く様に思(おぼ)ゆる也」と、まさに断腸・共苦する菩薩の心情が吐露される場合がある(『今昔物語集』5-14)。万人のため常に真っ先に断腸の想いに駆られるキリスト教の神と、何度でも転生してそのつど他の生き物のために身を捨てようと誓願を立てている菩薩と、イメージの上で親近するところがありそうである。

あれこれ浮かぶことは単なる思いつきや妄想の域を出ないが、サビエルも訪れたこの山口の地で、たまに聖なる物語をはしごして、考えることを楽しんでいる。