ピュロン主義の有効性について(文:脇條靖弘)

林先生が書いておられるように、物事を複数の視点から見ることは有益であると考えます。

私は古代ギリシア哲学を専門にしておりますので、今回はそれに関して、「ピュロン主義者」と呼ばれる古代懐疑主義の一派の考え方を紹介したいと思います。彼らはピュロンという哲学者を自分たちの祖と仰ぎ、その考えを再興しようとした学派ですが、彼らによれば、「何事も複数の視点から見れば見るほど信じることができなくなり、判断保留(エポケー)に至る。しかし、その判断保留こそが魂の平静(アタラクシアー)という最高の状態をもたらすのだ。」と言います。要するに、複数の視点からものを見ると、判断とか信念というやっかいなものから解放され、それが幸せを与えるのだ、と言うのです。

はたして「判断、信念をまったく持たずに生きる」などということができるのか、という疑問はひとまず置くとしても、複数の視点がどうして判断、信念を取り去ってしまうのでしょうか。まず、明かに判断保留が生じる例を見てみましょう。目の前に金平糖の小さな粒が沢山入ったガラスの瓶があると想像して下さい。このとき、

A この瓶の中の金平糖の数は奇数である

あるいは、

B この瓶の中の金平糖の数は偶数である

という命題をあなたは信じることができますか。信じたことが当たってなくてもかまいません。当たっても当たらなくてもともかく、AかBを信じることさえできればOKです。もちろん、粒を数えれば、どちらかを信じることはできるでしょう。でも、まだ数えていないとき、あるいは、何らかの理由(フタがどうしても開かないとか)で数えることができないときにそれができますか。

ためしに、「よし私は(意地でも)Aを信じてやろう」と頑張って見て下さい。根拠なく信じようと頑張るわけです。できましたか。できないですよね。(できた人はどうぞ山口大学人文学部、脇條(yasu@yamaguchi-u.ac.jp)までご報告下さい。)もちろん、根拠はなくても、「この瓶の中の金平糖の数は奇数である」とか「この瓶の中の金平糖の数は偶数である」とか言うことはできます。でも「言う」ことができたからといって、「信じる」ことができたとは限りません。

そうなんです。この場合AとBに同等の根拠があるので、どちらかに判断、信念を傾けることができないのです。彼らの言う判断保留というのはだいたいこんな感じのものではないか、と考えられます。(もちろん、いろいろ解釈はあります。)つまり、この場合、判断保留は能動的にとる態度というよりは、受動的に強制されるものであるわけです。

でも、A、Bの場合は明らかに根拠が同等だけれども、同等じゃない場合はどちらか信じることができるんじゃないか、と思いますよね。たとえば、林先生の取り上げておられる例ですが、

C 就職活動がうまく行かないのは自分のせいだ

と信じている学生は、もちろん何か根拠があってそういう判断、信念を持っているわけです。しかし、ピュロン主義者に言わせると、実はCと対立する

D 就職活動がうまく行かないのは自分のせいではない

にも同等の根拠があるのに、それに目を向けていない、気付いていないだけなのです。Cという判断、信念こそが魂の乱れ=不幸の源なのであって、複数の視点を持ってDにも同等の根拠があることを理解した人は、金平糖の数についてA、Bの判断ができないのと同じように、C、Dについての判断を「やろうと思ってもできないはず」なのです。こうして視野を広げた人は、C、Dについて判断保留(エポケー)の状態を達成し(というかそうならざるを得ない)、それによって魂の平静(アタラクシアー)=幸福を得ることになる、というのがピュロン主義者の考えです。

ピュロン主義者は、これがあらゆる判断、信念に適用できると考えています。つまり、あらゆる判断、信念にはその反対に対するのと同等の根拠があり、それゆえ「あらゆる」判断、信念は保留されざるを得ない。やろうと思ってもできない、というわけです。詳しい話はここではできませんが、ピュロン主義者はこれを達成するための「方式」というのを提出しています。

彼らのこの主張が正しいかどうかは確かに疑問ではあります。たとえば、

E 地球は丸い

F 地球は丸くない

に同等の根拠があるでしょうか。やはり、大きくEに傾きますよね。Fに対する根拠に目を向けていないだけだ、とは言えそうにないですよね。

その点は疑問ですが、少なくともわれわれの悩みの種になっている命題の多くは、視野を広げて複数の視点を持つことによって、その反対の命題についても同等の根拠があるとわかるようなものであることが多いのではないでしょうか。そうだとすれば、現在でもピュロン主義の方法は有効性を失なっていないのだと思います。古代懐疑主義セラピーですね。