宗教学実習:「通くじら祭り」「元乃隅稲成神社」「千畳敷」(長門市)

7月17日、山口県長門市通で開催された通くじら祭りと、同じく長門市にある元乃隅稲成神社、千畳敷を訪れた。非常に天気が良く、日差しの強い1日だった。

通くじら祭りは朝9時から開催され13時にはすべての内容が終えられるため、いつもより30分ほどはやい出発となった。今年の開催内容は和船競漕大会、古式捕鯨の再現、通鯨歌保存会と通小学校児童による鯨歌の演唱であった。通地区は漁業の町であり、海の伝統文化として「古式捕鯨」や「和船競漕」が古くから伝えられてきた。伝統文化の継承と地区民相互の連帯を高め、通地区を活性化することを目的に通くじら祭りが開催されている。地区外との交流を増やすためとして「古式捕鯨の実演参加者」を外部から募集しており、とても面白い試みであると感じた。

日本の文化は閉じたものになりやすい印象を持っていたため、統文化を地区限定の閉じた文化とするのではなく、地区外との交流の手段として用いるのに新鮮さを覚えた。「くじらが出たぞー!」という呼びかけから始まる古式捕鯨の再現ではくじらの模型が使われており、その模型が時折潮を噴き上げていたのが印象的だった。くじらが潮を噴き上げていることでよりリアルに感じた。また、くじらの背中に乗りあがった男性が銛を突き立てると潮の色が赤に変わり、血しぶきをあげているように見えた。古式捕鯨に参加している男性や船の幟にくじらの血がついていたのが、迫力があって印象深かった。

午後からは元乃隅稲成神社へ向かった。元乃隅稲成神社はむかし地域の胴元であった男性の枕元に現れた白狐が「これまで漁をしてこられたのは誰のおかげか。吾をこの地に鎮祭せよ」と述べたことから、島根県津和野町太鼓谷稲成神社から分霊された神社である。「稲荷」神社は全国に数多く存在するが、元乃隅稲成神社は島根県津和野町太鼓谷稲成神社と合わせて全国に2つしかない「稲成」神社となっている。元乃隅稲成神社の特徴といえば100メートルに渡って並ぶ123基もの鳥居である。また、下方には大きな岩場があり、海に面している。海面からの高さがあり足場が悪く、海風も強いのだが柵のようなものは一切なく、自然のままになっていた。

次いで、千畳敷を訪れた。千畳敷は標高333メートルの高台であり、海と空のパノラマを望むことができる。また、キャンプ場でもあり、テントを張っている人もちらほらと見受けられた。千畳敷からは先程まで近くにあって海風を感じていた海が遠くにあるのが不思議な感じがした。また、広々とした草原を訪れる機会は普段滅多にないため、貴重な経験だったと感じる。

7月17日の実習では、海・山・空・草原と、様々な自然に触れることができた。<文:哲学・思想コース2年次・船倉榛名>

 

今回の実習では、長門市通の「通くじら祭り」及び付近にあるくじら資料館の見学、元乃隅稲成神社と千畳敷を訪れた。

くじら祭りについては、想定していたよりも規模が小さいという印象だった。また、祭りの花形であるクジラ漁の再現がかなり離れた海面で行われていたということもあり、あまりいい写真が撮れなかった。クジラの張りぼての内部には4人の人が潜んでいて、潮や血を噴くクジラを操作していたらしい。あの気温ではさぞ暑かっただろうと思う。真っ赤な褌を締めた若者たちが気勢を上げ、勇ましく漁に興じていたのは面白かったが、欲を言えばもう少し近くで観たかった。

 

元乃隅稲成神社では、たくさんの列に並んだ鳥居を潜って海に面した崖を楽しんだ。潮風が非常に強く、煽られて海に落ちるのではないかと心配になるほどだった。しかしながら、一列におびただしい数の鳥居が並んでいるのは壮観で、私は昔訪れた京都の伏見稲荷を思い出した。元乃隅稲成神社は階段がそこそこ急だったこともあるが、非常に怖い思いをした。しかし、崖から見る海は非常にきれいで、また訪れてみたいという気分になった。私が生まれ育った岡山県の瀬戸内海はあまりきれいではないので、沖縄に修学旅行で行ったとき以来の「きれいな海」という気持ちを思い出すことができたかもしれない。贅沢を言えば、次はもう少し涼しい季節に行きたいが。岸壁に打ち寄せて、白くしぶきを上げながら逆巻く潮流は見ごたえがあったし、他の山口県内の観光名所もまた回ってみたいと思った。<文:哲学・思想コース2年次・畑上隼也>

『共同体の秩序の更新と確認を目的として行われる祭というものには、必然的に「暴力性」が孕まれる、ということになるわけである。』

青海島の通地区で行われた通くじら祭りを見物する中で、私は六車由美の『神、人を喰う 人身御供の民俗学』の中にあったこんな一節を思い出していた。

かつての捕鯨を擬似的に再現していたこの儀式が特に印象強く記憶に残っているのがその再現にあたってのリアリティの凄まじさである。儀式の中で使われた張り子の鯨は内側からの視界は無いようなもので、大人が何とか入り込めるくらいの広さしか無い鯨の口を模した穴だけで、その移動方法も船などが随伴・曳航しているわけではなく(おそらくは縄か何かで陸地へと引いていたか、内側に動力があったかと思われる)鯨が漂う姿をそのままに示しており、果ては銛で刺された傷口から血糊が吹き出すギミックを仕掛けていたほどであった。

そして、鯨のグロテスクなリアリティに反して人間の動きが極めて儀式的であったのが気になった。宙返りをして『鯨』から飛び降りたり大げさな身振りをしてみせるなど(もちろん儀式である以上は類似するのは当然のことではあるのだが)演劇に近似したものを感じさせ、『鯨』との間に若干のリアリティの隔絶を感じさせた。しかし、そのリアリティの差というものが却って『鯨』の現実感を色濃くしていたように思えるのだ。私が見物していたあの儀式において、『鯨』だけは紛れも無い本物の命だったのだ。

なぜ、というのがこの再現を見終えた私の率直な感想だった。祭りの中には暴力性が孕まれるという六車の言葉通り多くの祭りには良くも悪くも日常から開放されるという目的が背後にあり、それを通じて人は浄化される。無礼講とも言うように祭りは日常の世界から非日常の世界に踏み込むことである。故にこの限定的な異界のなかでは人と神・霊が同じ視点に立つことすら有りうることであり、その場所においては一種の対等関係にあるとも言えるだろう。祭りという振る舞いによって人は神・霊の存在を強く浮き上がらせ、神・霊の存在を感じることで人は日常から開放され自身の存在や命などといったものを改めて意識する。この主客の絶え間なき入れ替わりこそが祭りなのである。しかし、この捕鯨再現のなかで主であるものはまさしく『鯨』であり、我々人間というものはその生命の現実味に霞んでしまっていたように私には思えたのだ。

今思えばこの発想は全く勘違いとしか言えない。私は祭りの主題というものを履き違えていた。当時私はこの祭りを葬式や現在でははだか祭として知られる灘追神事のように、穢れを鯨の霊魂に託すことで開放されるものと考えていた。おそらくは資料館において展示されていた捕鯨用具やらの類の印象が残っていたのかもしれない。なんにせよ私はこの祭りの主題が過去の捕鯨再現であると思い込んでいたため見落としていたが、正しくこの祭りの目的であるものは鯨の鎮魂であり、捕鯨再現というものはその儀式を行うための前座に過ぎぬものであったのだ。なぜなら捕鯨というものは狩猟であり、そこには生命の終わりというものが付いて回る。そして、その死こそが鎮魂というそれにおいては始まりであるからである。

後に先輩から聞いた話によると、陸揚げされた『鯨』の中からは小さな鯨(ぬいぐるみであったと聞いたが記憶が曖昧なため確証はない)が取り出され、たちまち鯨墓の前へと運ばれていったそうだ。残念ながら体調を崩して資料館で休んでいた私は見届けることが出来なかったため憶測でしか語ることは出来ないが、命を奪われる前の海をたゆたっていた時から『鯨』のうちに宿していたこの小鯨こそが鯨の魂であったのだろう。『鯨』のリアリティ、苦しみや痛みを感じさせるグロテスクや、それを際だたせるための演技というものは全てこの魂のリアリティを真なる鯨の再現とするためのものであったのだ。

鎮魂というものは日常の中を生きる私達の中にも強く根付いている考え方であるが、あまりにもその距離が近すぎたがために、今やそのリアリティはどこまでも遠く離れた物となってしまっている。葬式で涙を流すものが一握りでしか無いのも、社会的かつ緩慢な死を迎えていた故人の死というものがデジャヴに過ぎず、リアリティの欠如があからさまな物となってしまっているからだ。人でさえこの有様であるならば食料である魚への感情は言わずもがなと言ったところであろう。かつて金子みすゞが『大漁』に詠ったリアリティはグレーゾーン、つまりは社会との間にある境界で擦り切れてしまい、死という名の異界そのモノを隔絶してしまった現代社会では、人の死と重ねてでさえも我々に境界を踏み越えさせるものではなくなってしまっている。既に鎮魂というものは風化し、形骸化が進みきっている概念である。だからこそ、あの捕鯨再現があるのだろう。

私は捕鯨再現を見物した際、なぜだ、と思った。『鯨』のリアリティはあまりにも大きすぎて、人間に対してはその存在というものが霞んでしまったような演劇的フィクション性を覚えたからだ。しかし、その答えこそが『鯨』のリアリティを高めたことで当然のように伏侍するものとなる『鯨の死』のリアリティにあったのだ。

既に我々から死は限りなく遠くに離れてしまい、目の前でそれを見ることでもない限りそれを実感することはない。魂の存在など以ての外、触れることも見ることも出来ないものを信じられないくらいには人間は不感症に陥ってしまっている。その鈍感な触覚を超えて、神・霊といったものを感じらせることのできる答えの一つがまさに通くじら祭りなのだろう。この祭りが現在も形骸化していないのはかつての通地区に青年組などを始めとした厳格なムラ社会が存在し、その秩序の更新と確認に祭りが使われたことも関与するだろうが、その最大のものは擬似的死を現実まで押し上げ、受け手次第ではただの茶番にもなりかねない鎮魂、その背後にある『死』の異界に濃密なリアリティを与えることで、不感の源である社会の壁を取り払うからだろう。社会の外縁に居座っている分厚い境界を乗り越えられるからこそ人はこの祭りに足を運び、この祭りは過去のものと忘れ去られることなく続いてきたのだ。

共同体の秩序の更新と確認を目的として行われる祭というものには必然的に『暴力性』が孕まれる。すなわちそこにはケガレが存在し、しかし、その先にこそハレの世界は存在する。ケガレがあったからこそハレは色濃く現れる。今回の実習はそのサイクルが如実に感じられるものであったと私は思う。<文:哲学・思想コース2年次・中山遼一郎>