とある公家の娘と大名の縁組から(歴史学コース 石田俊)

最近、江戸時代の公武婚(武家と公家との結婚)に焦点をあてて、いろいろ史料を探しています。今回は、公家の鷹司家と萩藩毛利家の縁組について、歴史研究の方法の話を交えながら書いていきたいと思います。

鷹司家は摂政・関白を勤める五摂家の一つで、家格としては非常に高いのですが、経済的にはたいしたことありません。元禄五年(一六九二)将軍で言えば五代綱吉の時代、その鷹司家に小石という娘が誕生しました。父は鷹司輔信。鷹司家の三男坊です。この時代は「家」を中心とした時代ですから、男子は自分の家を継ぐか別の家の養子となるか、さもなければお坊さんにでもなるか、というのが基本的なレールでした。しかし、輔信はどれも選ばず、茶人として気楽な(かどうかは分かりませんが)人生を過ごしました。号は有隣軒。寛保元年(一七四一)没。六十二歳といわれています。

ここで、ありゃ、と疑問に感じた人はいるでしょうか。没年から逆算すると、輔信の生まれは延宝八年(一六八〇)。小石は、輔信十三歳の時に生まれたことになってしまいます。数え年ですので、今でいうと十二歳。しかも小石には八重という姉がいます。後に水戸の徳川吉孚に嫁いだ彼女は元禄二年(一六八九)生まれですから、さすがに考えられない。輔信の年齢が間違っているのか、子供の年齢が間違っているのか、両方間違っているか。いろいろ史料を探しますと、『通兄公記』六(続群書類従完成会、一九九九年)寛保元年十月九日条に、有隣軒が「七十四才」で死んだという記事を見つけました。『通兄公記』は久我通兄という公家の日記で、輔信と同じ社会に生きる人ですから信憑性は高い。つまり、鷹司輔信は寛文八年(一六六八)生まれとみたほうが良さそうです。

・・・いきなり横道にそれました。まぁ、こういう細かいところを一つ一つ詰めていくのが歴史学ということになります。なお、鷹司輔信延宝八年誕生説は、「鷹司輔信」でググると真っ先にでてくる「コトバンク」(「日本人名大辞典」)に載っている情報です。辞書でも全て正しいとは限りませんし、自分で一つ一つ確認する必要があるわけですね。

さて、小石に縁談が持ち上がったのは元禄十四年(一七〇一)、十歳の時です。お相手が萩藩四代目藩主、毛利吉広です。ただ、吉広はこの時二十九歳ですから、当時の感覚からしてもバランスの悪さは否めない。なぜこの縁組が成立したのでしょう。

萩藩側の史料をみてみましょう。

殿様のご縁組については、松平出羽守様の御姫様とご縁が切れていらい、江戸ではふさわしい話がなかったところ、元禄十四年の冬になってお城の女中右衛門佐殿から「鷹司兼熈公弟の有隣軒様の二女を兼熈様のご養女として縁組されてはどうでしょうか、御台様と鷹司家は深いご縁がありまして、御台様にもかねてから心配されていたところです。毛利家と鷹司様もご縁がありますので、この縁組が整いましたら御台様にも一入お悦びになるでしょう」ということだったので、毛利家江戸屋敷で相談したところ「このお姫様は水戸様のご簾中八重姫様の妹様で、殿様ともご縁があるし、御台様ともより深いご縁ができることなので幸いのことである」と決定した・・・

山口県文書館蔵毛利家文庫「小石君様御縁組御結納一巻」(文書番号四四三賀一三)を省略しつつ現代文にしたものです。ちなみに原文は当然くずし字ですので、まず現代の字体に直す必要があります。その上で必要なのは人物比定。「松平出羽守」って誰か、「右衛門佐」って誰か、「御台様」って誰か。一つ一つ調べて特定し、語句の意味も調べ、話の筋を追っていくわけです。

ここでは正解を言いますと、「松平出羽守」は松江藩主の松平綱近。その娘は毛利吉広と婚約していましたが、婚礼前に亡くなってしまいました。「右衛門佐」はドラマにも登場する大奥女中の右衛門佐局。「御台様」は、時の将軍綱吉御台所、鷹司信子ということになります。信子は鷹司家出身で、小石からすれば叔母さんにあたります。つまり、将軍御台所である信子は、かねてから姪の小石の縁組について心配していた。そこに、毛利吉広が婚約者を亡くしたとの報が入ったため、大奥女中右衛門佐を通じて話を出してきた、という流れになります。ここからは、将軍の妻や大奥女中たちが、縁組の仲介をしていたことが分かります。

もう一つ面白いのは、萩藩側の回答です。公家との結婚というと、天皇・朝廷へのつながりや、雅な宮廷文化への憧れが強調されがちですが、少なくとも今回の場合、萩藩の関心は別のところにあったようです。まず、水戸家との関係です。先述のように小石の姉、八重は水戸家に嫁ぎましたから、小石と結婚すれば御三家の一つ水戸家と親戚になれるわけです。次に、当然ながら小石叔母の御台所信子とも親戚になれます。ということは、将軍綱吉ともお近づきになれるわけです。これは萩藩にとって大きなメリットになり得ました。とはいっても、幕府が萩藩のために有利な政策をとってくれるわけではありません。江戸幕府の政治は基本的に老中の合議で行われますので、将軍といえど、そうそう勝手なことはできないのです。ただ、将軍綱吉の覚えが良ければ、家の相続、官位の昇進といった「家」に関する事柄では優遇される可能性があります(この辺りの違いについては、福留真紀『将軍側近 柳沢吉保』(新潮新書、二〇一一年)が読みやすいです)。もちろん、お金がかかるというデメリットもありますが、萩藩はメリットのほうをとったわけです。

このようにして、元禄十五年(一七〇二)、毛利吉広と小石の縁組が幕府に正式に認められます。萩藩が摂家から正室を迎えるのははじめてのことでした。何しろ文化が違いますから、輿入れ後に摩擦が起こらないとも限らない。萩藩がとった対応は、非常に厳しいものでした。まず、萩藩は小石を鷹司家屋敷からいったん萩藩の京都屋敷に引き取ります。そして、引き取った後は、親・兄弟のほかは一切交流させず、もちろん小石に外出も許さず、お付きの女中も萩藩のほうであらかた選定しました。

小石様のあり方については、京都での格もあろうが、こちらのお家でおひきうけした後は、万事お家の先格をもって仰せつけることであるので、女中やそなたたちの勤め方も、これまでと違いはない。

これは、吉広が小石付裏年寄(総責任者)となった藩士へだした「御意」(ご意向)の内容です(前掲「小石君様御縁組御結納一巻」)。萩藩は、小石に萩藩の家風を遵守させようとしたのです。こうしたあり方が当該期の公武婚では一般的だったのでしょうか。もう少しいろいろな事例を検討しないと分かりません。

ともあれ、翌元禄十六年、小石は京都から江戸にむかい、同年のうちに婚礼が行われました。吉広三十一才、小石十二才です。

この結婚生活は長く続きませんでした。わずか四年後、吉広は亡くなります。小石は十六才の若さで髪を切り、養心院と名乗ります。そしてさらに二年後、彼女は江戸から京都に戻り、以後四十八才で亡くなるまで京都で過ごしました。

この結婚生活は、小石にとって幸せだったのでしょうか。それは分かりません。男性に比べて女性の史料はどうしても残りにくく、本件でも小石自身が記した史料は確認できていません。

史料が残っていない時、研究者はどこまで語るべきか。難しい問題です。基本的には、抑制的でなければなりません。第一、「あいつは不幸だったに違いない」「いや、幸せだったはず」。そんなことを判定するのは、研究者の役割ではありません。ただ矛盾するようですが、歴史に埋もれたいろいろな人の「声」を発掘するのは研究者の大切な仕事です。あなたには、彼女のどんな「声」が聞こえましたか。