スケートボード

オリンピックの種目にもなって、スケボーに注目が集まっているみたいですね。

僕自身、高校生の時からスケボーを始め、何度も何度も中断と再開を挟んで、1年前くらいからまたスケボーをやり始めています。オリンピック種目になったからとかではなく、遠隔授業が増えたせいで体重も増えたので、運動しなきゃと思って再開した感じでした。

元々上手くない上に、再開後も全然上達しないんですけれど、若いスケーターたちと楽しく滑ってます(別に待ち合わせだとかもするわけでもなく、そもそも名前も連絡先も知らないので、公園に行ってみていたら一緒に滑るみたいな感じで)。

ちなみに、僕自身オリンピックは全く見ていないので(そもそもオリンピックが嫌いなのに加えて、家族の誰も見たがらないので)、個々の選手については(どこの国の人かも問わず)頑張ってるし上手いなーとは思うものの、「メダルやったね」とかそんな感じの思いはなかったりもします。それどころかむしろ、スケボーがオリンピック種目に入ったのもあまりいいことだとは思っていなかったりも。何で「いいことだとは思っていない」かというと、スケートボード「男女ダブル金」 ブーム到来で懸念される公園・道路の「騒音問題」日本は「スケボー」になぜ厳しい? メダル有力でも“悪ガキの遊び”…の記事にあるように、スケボーって元々公共空間の管理や排除と衝突しながら管理や排除を強いる仕組みを顕在化させてきたスポーツな面があって、オリンピックで注目されてメインストリームに取り込まれていくことで、排除の仕組みを顕在化させる機能が失われていくのは間違いなく、にもかかわらず他の特定の立場の人々が公共空間から排除される仕組み自体は残る(巧妙化する「排除アート」 誰にもやさしくない都市が牙をむく時 「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」に書かれてることなんかと関連します)よなという思いがあるからだったりします。この辺、大学院生の時(=15年前くらい)にカルチュラル・スタディーズ(興味がある人は調べてみてくださいね)のゼミで報告してあれこれ語ったりもしてたんですが、今も変わらないなーと。

とかグダグダ言いつつ、「結局オリンピックに便乗してブログ(この記事)書いてんじゃん」と言われたら、「その通りですね」としか言いようがないんですが。