モノを見る力(文:村田裕一)

 考古学の発掘調査では,土の色や質の違いによって,そこに昔の人が生活した痕跡を見つけ出します。「遺構」と呼ばれるものです。穴が掘られたりして,人の手が加えられた土地は,それが再び土に埋没しても,決してもとの状態に戻るわけではありません。もともとの土と埋め戻された土の間には,色や質の上で違いが生じるのです。したがって,この違いを頼りに発掘調査は進められます。考古学者は,土の色や質の違いで,そこに住居や柱,溝や墓など昔の人が生活した痕跡があることを知るのです。

 私は,学生時代,奈良県で発掘調査のアルバイトをしたことがありました。取り組んだのは,飛鳥京・藤原京という飛鳥時代・奈良時代の都の調査です。それは,私がはじめて経験する都城遺跡の本格的な調査でした。調査の大半は,現在,水田として利用されている土地で行われました。いわゆる低湿地の調査にあたるわけですが,そのような低湿地の調査も私にはあまり経験の無いものでした。
 調査に参加してすぐに,私は発掘現場の責任者に柱穴を探すように言われました。探すと言っても,落とし物を捜すように地面の上を捜索するわけではありません。柱穴のような遺構を探すためには,草刈りに使うねじり鎌という手グワのような道具で,まず調査している地面を水平にきれいにならします。この作業は,地面を薄くそぎ取ることで土の色をしっかり見極めることを目的とします。そこにもしも,土の色の濃淡が現れ,それをたどって柱の断面の形になれば,そこが柱穴の可能性があるのです。
 私は,それ以前に,柱穴を何度か調査したことがありました。それらは,縄文時代や弥生時代のもので,直径5cmくらいから20cmくらいまでの円形です。私は,そのような円形の土の色の変化を一生懸命に見つけようとしました。ところが,土の表面を削り,新鮮な土の色を出して,探すのですが,どうしても見つけることができません。やがて,やってきた責任者に,柱穴が見つからないことを報告すると,彼は地面を指さして,「そこにあるじゃないか」と言います。いま私が土をきれいにしたところです。私は「えっ」と思って,そこを見ましたが,やっぱり柱穴はありません。彼は,「やれやれ」という感じで,地面に線を引きました。
 そのとき私は愕然としました。それは,1辺40cmぐらいの四角形で,明瞭な土の色の違いとしてそこに現れたのです。私は,15cmくらいの円形ばかりを頭に描いて探していたのですから,見つかるわけがありません。
 前置きが長くなりましたが,「見える」ということは,認識の問題なのだと,その時はじめて私は経験として悟ったのです。指摘される前に,私はその地面の土の色の違いには気がついていました。ところが,その色の違いを遺構としてとりまとめて認識するには至ってなかったのです。それは,「視れども見えず」の状態です。つまり,そこに実物があれば必ず見えるわけではなく,頭の中のイメージとの一致があって,はじめて実像を取り結ぶのだということがわかったのです。考古学の発掘調査を例にとりましたが,これはあくまで私の経験の一つです。果たして学問としての考古学の立場からは,このようなことで良いのでしょうか?

 私たち考古学者の仕事の重要な部分は,一見何の秩序も法則もないようなものに,ある方向から光をあてたり,切り取ったりすることで,整然とした秩序や法則を見つけだそうとすることです。実物と実像。実像は本質と言い換えることができますが,両者を取り結ぶための方法がとても重要になってくるのです。
 先ほどの例のように,頭の中にあらかじめイメージを用意する場合もあります。この場合に大事なのは,自分のイメージにとらわれすぎて,そのイメージの中でしか見ることができない,といったことに陥らないことです。柱穴の例は,このような固定化した自分のイメージにとらわれすぎたために起こった失敗です。当時の私の未熟さですが,こういったことに陥る危険性は,経験の多少にかかわらず常にあるのです。ですから,それを避けるためには,いろいろな可能性を考えて,様々なイメージを用意し,それらを取っ替え引っ替えして,実物と何度も繰り返し照らし合わせながら,検討を進めて行く必要があります。そうでなくては自分の見方を,実物に無理矢理押しつけることになります。それでは,ゆがんだ実像しか得ることができません。
 これとは反対に,事前のイメージを極力排除し,白紙の上に実像を少しずつ組み立てて行くという方法もあります。こちらの方法でも,やはり試行錯誤の繰り返しで一歩一歩考えを進めることになります。
 大まかに,2つの方法に分けて紹介しましたが,実際の調査と研究の現場では,両方の方法を併用しながら,相互に検証しあって進めて行くことが多いように思います。いずれの方法でも重要なのは,実物すなわちモノを丁寧に観察して,それに基づいて論理的に考えを進めて行くことです。ですから,私にとって研究を行うことは,日常的な経験の世界から離れて,論理的な作業の中に生きることを意味しています。

 現在,人文学部では考古学を専攻する学生さんは毎年7人前後おられます。彼らもこのような作業を行い,最終的には卒業論文としてまとめて,社会に巣立って行きます。何百年も何千年も,あるいは何万年もの昔を扱う考古学ですが,このような作業は,学生さん達が社会に出てからも,必ず役に立つと思っています。ある素材を丁寧に観察して,問題点を導き出し,整理して,論理的な思考のもとに結論を導き出す,という力を身につけることは,現代の社会を見抜く,あるいは自分の身近に起こる事柄を客観的に読み解く力につながると思うからです。自分の経験則を絶対視せず,相手からもたらされる情報に虚心に耳を傾けて,論理的に物事を考え,さらにその考えを慎重に検証する習慣は,考古学研究室を巣立ってからの人生においても必ず役に立つと信じています。
(次回はエムデ先生です。)