繰り返す歴史と向き合う

  もうすぐ2024年も終わりです。NHKの大河ドラマ「光る君へ」に寄せて、今年は主に平安貴族をテーマに据えて、通常よりも高い頻度で書きたい!と宣言しておきながら、忙しさのあまり、結局はほとんど更新できませんでした。これが24年の3本目、今年度では1本目(これまでのお話はまとめページからアクセスしてください)。申し訳程度に、年内最後に少しだけ書いておこうと思います。

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  もう記憶の彼方へと追いやられつつあるかもしれませんが、少し前に、私たちは「コロナ禍」というものを経験しました。それはウイルス感染による健康被害にとどまるものではなく、感染拡大防止や公衆衛生に関する政策、政治の混乱や経済の停滞、あるいは感染症に関する理解やワクチンの効能をめぐっての意見対立、真偽不明情報の拡散といった、社会の広い範囲に影響を及ぼした現象であったことを、ちょっとだけ思い起こしておきましょう。言うまでもないことですが、こうした経験は現代を生きる私たちだけのものではありません。平安時代を生きた人々もまた、同じような経験をしています。
  ちょうど藤原道長が活躍を始めるころにも、疫病の流行が京都を襲いました。コロナ禍と前後して、歴史学、日本史学の研究の世界でも、疫病や災害を正面から取り上げた研究が増えてきましたが、こうした近年の研究成果によれば、10世紀の後半から11世紀の初頭にかけてという時期は、「ミレニアム・クライシス」とも呼ぶべき、数百年に一度の疫病流行期に当たっていたようです(本庄総子「飢饉と疫病」吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『シリーズ古代史をひらくⅡ 天変地異と病』岩波書店、2024年)。
  考えてみれば、今も京都で行われる紫野の今宮祭は、道長の時代には「紫野御霊会」とも呼ばれていますが、これは「長保年中」(999-1004)に、この地で「疫神」を祭ったことに始まるとされていますし、京都三大祭のひとつである祇園祭も、貞観5年(863)の神泉苑御霊会が起源として指摘されることがありますが、現代に繋がる祇園御霊会としては、それより100年以上ものちの天延2年(974)に、円融天皇(一条天皇の父)が「皰瘡」に苦しんだことが重要な起点と言えそうです(祇園御霊会は翌年から)。このように現代に続く祭礼の中にも、この時の被害の記憶をとどめるものが複数存在しているわけで、そのことは、「ミレニアム・クライシス」なるものが当時の社会に与えたインパクトが、決して小さくなかったことを物語っているように思います。

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  こうした感染症の流行がうち続く時代の中でも、とりわけ大きな被害をもたらしたと見られるのが、正暦の疫病流行でした。正暦4年(993)ごろから大きく広がりを見せた疫病は、翌正暦5年には京都の至る所に死体が放置され、鼻をつく死臭が充満するような状況になり、やがては死体が京内を流れる堀を塞いで水があふれ出し、あわてて死体を「掻き流す」ようなありさまでした。こんな恐ろしい光景を前にして、貴族や官人たちの中には、家に閉じこもって職務を放棄する者も出てきます。実際、翌年には多くの上級貴族たちが亡くなって、生き残った道長が一挙に政界のトップへと躍り出ることにもなります。
  混乱したのは、もちろん政界だけではありません。死につながる恐ろしい病気を前にして、こんな病気にかかりたくない、はやく流行が収まって欲しいと思うのは、庶民も同じです。京都の人々は船岡山(今宮神社の南にある小さな山)で「御霊会」を行って「疫神」を祭ることにしたようですが、朝廷からの命令でない、人々の自主的な催しにもかかわらず、そこには幾千人もの人々が集まったと記録されています。
  このように社会の不安が高まっているときには、真偽不明の怪しい話が出回るのも、やはり世の常なのかもしれません。京都の三条通と油小路通の交差点から少し西へ行ったところ(現代京都風に言えば「三条油小路西入ル」)に、この当時、小さな井戸があったそうです。ただし、泥がたまり水量が豊富というわけでもないため、この頃には普段使いはしていませんでした。ところが、ある人が「この水を飲むと流行病に感染しなくなるぞ!」というウワサを流したことで、京都中の人々が、身分の上下も関係なく、この水を汲みにやってくるという現象が起こります。現代社会でいうところの「デマの広がり」が、平安時代の京都にも見られたのでした。

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  このお話は『本朝世紀』という史料に載っており、平安時代を専門とする研究者であれば誰もが知っている事柄に属するものでしょう。私は、鎌倉時代など中世の史料を使って平安時代を分析することを得意とする研究者なので、ここでは私らしく、あまり知られていない(?)「後日談」も併せてご紹介したいと思います。
  正暦の疫病流行から200年ほどのちの承久元年(1219)、鎌倉時代の京都を再び疫病が襲います。この時、あるウワサが流れました。「三条堀川辺にある小さな井戸の水を飲めば、流行病に感染しなくなるぞ!」と。そうです。またしても真偽不明の情報が広がりを見せたのでした。堀川通は油小路通の一本西側の通りで、平安時代にデマが流れた井戸の所在地「三条油小路西入ル」は、別の言い方をすれば「三条堀川東入ル」です。鎌倉時代に問題となった井戸は、平安時代のそれと同じものと見て問題ないでしょう。200年の時を隔てて、同じ場所で同じデマが流され、社会の混乱を招く。まさしく、歴史は繰り返されたのでした。

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  疫病の流行によって政治が混乱し、社会不安が高まり、それに付け込んだデマがさらなる混乱を招く。平安時代にも鎌倉時代にも、そして現代のコロナ禍でも見られたように、歴史は繰り返すのだから、次こそは同じ轍を踏まないよう、歴史から教訓を得ましょう、歴史を学んで生かしましょう・・・。私はそういうことが言いたいのではありません。私が研究者として気になってしまうのは、「どうして同じ過ちが繰り返されたのか」ということです。
  どうして同じようなデマが流れ、人々はそれを信じてしまったのでしょうか。このようなウワサ話にやすやすと騙されてしまうのは、古代や中世の人々が迷信深く無知蒙昧だったからでしょうか。・・・それは違います。平安時代のデマを記録した『本朝世紀』は、朝廷で文書行政を担った外記という役人たちの記録をもとにしたものだと考えられていますが、『本朝世紀』(のもとの記事)を書いた外記は、ウワサ話で混乱する様子を記した後、次のように述べています。「こういう社会現象が起こるのは、人々が致死率の高い病気を恐れるあまり、「妖言の真偽」を確かめないからなのだ」と。つまりは平安時代を生きた人の中にも、これが所詮はデマに過ぎないこと、しかしながら、デマが社会不安に乗じて広がったことを喝破している人がすでにいたのです。にもかかわらず、鎌倉時代にはまた同じことが起きてしまいます。
  しかし考えてみると不思議でならないのは、このウワサがまったくの同じ場所で生じているという点です。井戸の水を飲めば病気にならない、というのは所詮デマに過ぎないのですから、そんな話は別の井戸から広がっても不思議ではありません。ところが鎌倉時代のデマは、平安時代のそれと200年もの時を隔てながらも、同じ場所で生じているのです。思うに、このデマは「この井戸」であったからこそ、広がりを見せたのではないでしょうか。
  鎌倉時代の人とて、ただの井戸水が病気に効くなどという、いかにも怪しげな話に簡単に騙されることは滅多になかったでしょう。しかし、この話が病気の流行という社会不安の中で、「前史」とともに語られたとき、「説得力」を持って広がっていったのではないでしょうか。要するに、火のない所に煙は立たぬ、この鎌倉時代のデマにはそれなりの「根拠」があったのであり、平安時代の疫病流行の際に人々が病気を免れようとこの井戸水を競って汲んだ、という点に限って言えば(実際に効果があったかどうかを措けば)、それは「事実」だったのです。
  デマ・妖言というと、まったく根も葉もない作り話だと思いがちですが、それが一定の広がりを見せるのは、「信じるに足る根拠」のようなものがあるからではないでしょうか。だとすると、平安時代、正暦5年の狂騒にも、デマに信憑性を持たせてしまうような「前史」が存在していた可能性が考えられるのではないでしょうか。今のところ、はっきりとした出来事を史料の中に見つけることはできていませんが、「この井戸」のある三条堀川は、神泉苑の目と鼻の先です。そこは正暦5年から100年ほど前の貞観5年に御霊会が行われた場所であり、ひょっとすると何か関係があるのではないか、そのように私は推測しています。
   
  三条堀川から神泉苑・二条城方面を望む(2024年3月黒羽撮影)

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  それにしても、デマの広がる一因がこの井戸の持つ「歴史」にあるのだとしたら、改めて「歴史」というものの恐ろしさを感じずにはおれません。悪意の有無にかかわらず(平安・鎌倉時代の妖言も悪意の無いウワサ話がきっかけだった可能性があります)、「歴史」は誤謬・誤報にさえ「根拠」を提供してしまいかねないのです。だからこそ、歴史学の研究者でなくとも、「歴史」を見極める力を身につけておくことが、私たちには必要なのではないでしょうか。
  歴史や社会を、一歩引いたところから客観的に分析する能力。私も、ちょうど平安時代の外記が示したような力を鍛えていきたいなと思います。今回のドラマをきっかけとして平安時代や貴族社会に関心を持った学生のみなさん、ともに腕を磨きませんか?