古文書が宙を舞う!?

  今回も前回に引き続いて、平安時代の政務と、その研究に関するお話をしてみたいと思います。
  突然ですが、体育館で表彰状(あるいは卒業証書)を受け取る場面をイメージしてください。正面の檀上には校長先生。その視線の先にある入り口から、あなたは校長先生へ向かってまっすぐ入場し、檀上に昇って賞状を受け取り、クルッと回って、もと来た道を歩いて退場します。この時、担任の先生がある「ルール」を教えてくれました。「賞状をもらったら、時計回り(右方向)にクルッと回って退場するように」と。なぜでしょうか。右回りだろうと、左回りだろうと、戻ってこられるならどちらでもいい気がします。
  実は、今日の表彰式には、体育館の(正面に向かって)右側に来賓(お客様)の席が設けてありました。もし、あなたが「ルール」を破って左回りをするとどうなるでしょうか(やってみてください)。そうです。回転の際、右側に座るお客様に対してお尻を向けることになり、失礼に当たります。先生が「時計回り(右方向)に回れ!」というルールを教えてくれたのは、このような失礼を避けるためでした。一見するとどうでもいいような、些末に思える「ルール」にも、それなりの「理由」や「背景」が存在していることが感じられたでしょうか。
  平安時代の儀礼や政務における「ルール」も同様で、些末に感じる決まりごとにも、そうしなければならない理由、歴史的背景が存在しました。みなさんのご想像に違わず、平安貴族社会は「ルール」や「マナー」、しきたりにやたらとうるさい世界でしたが、それが歴史的に形成されものであってみれば、「どうしてこんなルールができたんだろうか」「どういう意図があるのだろうか」という問いを立てることで、これは歴史研究へとつながっていきます。

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  ルールや決まりごとは、本来、何らかの目的を達成するための「手段」に過ぎません。いまご紹介した例で言えば、「お客様への失礼を避ける」ことが目的で、「右回り」というルールは、その目的を達成するための方法、手段に過ぎません。ところが、こうしたルールが定着してくると、その本来の目的が忘れられて、ルールを実行すること自体が目的になってしまうことがあります。
  再び先ほどの例に戻ってみましょう。また同じように表彰式が行われるとします。ところが今回は体育館のエアコンが故障し、右側は温度の調整が効かなくなってしまいました。そこで今回だけは、来賓の席を体育館の左側に設けることにしました。ところが、ここであなたが緊張のあまり「右回り!右回り!右回り!」と呪文のようにルールを唱えて、実際に右回りをしたらどうなるでしょうか。そうです。「ルールは守った」かもしれませんが、「お客様にお尻を向けない(失礼を避ける)」という本来の目的は達成されないことになってしまいますね。
  平安時代の史料を見ていると、こういう「失敗」を、(あるいは失敗と気付かず)平安貴族たちが時々やらかしているのを見かけます。しかし、私たちも笑ってばかりはいられません。「目的」と「手段」を取り違え「手段」が目的化していること、それによって引き起こされる問題が、現代社会にも散在しているのではないでしょうか。はたまた、目的達成のための最適な手段とは思えない方法が、政府の政策として進められることも少なくないのではないでしょうか。安直な考えかもしれませんが、平安貴族社会の決まりごとを読み解く力を鍛えることで、現代社会の問題を鋭く分析する腕も磨かれるのではないか、と私は思っています。

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  そうは言うものの、やはり貴族社会のルールというのは、現代を生きる私たちには理解しがたいものも存在します。『上卿故実』という故実書、儀式や政務の責任者である上卿(しょうけい)のためのハウツー本の中から、不思議なルールをひとつご紹介しましょう。
  そのなんとも不思議なルールとは「土代ヲ投ゲ遣ル事」、定(さだめ)という政務に関するルールです。定には大きく2タイプがあって、ひとつは議定、いわば話し合いで、定と言いながら、ここでは何らかの決定がなされるわけではなく、参加者が意見を出し合います。教科書に出てくる「陣定(じんのさだめ)」などは、このタイプの定です。もう一つは、文字通りに担当者などを決定する定で、『上卿故実』に見える「土代ヲ投ゲ遣ル事」というルールは、どうやらこちらの定(後者)に関するもののようです。
  この定では、上卿の決定した内容を、執筆(しゅひつ)または右筆(ゆうひつ)と呼ばれる書記担当の参議(さんぎ、大臣・大納言・中納言に次ぐ立場の貴族)が書き取って、定文(さだめぶみ)という文書を作成します。平安時代のはじめには、責任者である上卿がこの場で決定した事柄を定文に書いていたようなのですが、平安時代も半ばを過ぎ、ちょうど道長の時代になるころには、この定は形式的なものになっていったようです。「土代ヲ投ゲ遣ル事」の土代(どだい)とは、いわばカンペのことで、定は何かを決定する政務ではなく、すでにどこかで決められた内容(が書かれたカンペ)を、正式な文書(定文)に書き写すだけの行事になっていました。
  そんなわけで、定文を書くためには、このカンペ(土代)が必要不可欠なのですが、土代は書記担当の執筆参議ではなく、責任者の上卿の手許に用意されました。これは、この政務のもともとの決定権者が上卿であったことの名残です。しかしカンペが登場した以上、彼の自由意志で定文を作る(作らせる)わけにはいきません。むしろ、書き間違いなどで責任問題に発展することがないよう、このカンペは、書記担当の執筆参議に渡してしまった方が無難です。そこで、この政務には上卿から執筆参議に土代を渡すという手続きが生じるわけですが、面白いのはその「渡し方」です。「投ゲ遣ル」とあるように、土代をポイッと投げて渡すのがきまりだったようです。
  古文書が宙を舞う――。もし私がそれをやったら、研究者失格!というような、そんな驚きの光景が、そこにはありました(もっとも、この時点では「古」文書ではなく、単なる文書ですが)。

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  土代は往々にして折紙(用紙を横長に折って使う用法)に書かれたので、これならば、投げても空気抵抗が少なく、うまく執筆の所まで届いたのかな・・・。以前にもお話したように高校時代に物理部だった私は、そんなことが気になってしまうのですが、問題はそこではありません。文書を投げるという、粗暴でマナー違反にも思える方法がとられたのは、一体何故なのでしょうか。
  『上卿故実』によれば、常にこの方法が用いられたわけではないようで、執筆参議が上卿の近くまで赴いて土代を受け取り自分の席に戻る、という常識的(?)なやり方もあり得ました。ところが、この方法を用いるのは上卿が大臣の時で、それよりも身分の低い中納言が上卿を務めるときには、やはり投げて渡すことになっていました。身分の高い大臣が手渡しをし、身分の低い(といっても大臣に比べて、ということです)中納言が投げて渡す(乱暴なっ!)というのは、なんだかあべこべな気もしますよね。
  この不思議なルールを考えるヒントは、『上卿故実』がこれを「芳心」だと説明していることです。「芳心」とは親切心。投げて渡すことは親切な振る舞いだったのです!
  土代を受け取る執筆参議の立場になって考えてみましょう。土代を手渡しで受け取る場合には、一度座席を立ち、受け取って、また戻る、という「手間」が生じます。しかし、上卿が土代を投げて渡してくれるのならば、そうした「手間」を省くことができますね。とりわけ上卿が中納言の場合には、書記担当の参議とは身分差が大きくありません。上卿の中納言が、参議に「取りに来させる」のは、ちょっと気が引けてしまいます。だから「手間」がかからぬよう、投げて渡してやる。ところが上卿が大臣の場合には、書記の参議と大きな身分差があります。参議を呼びつけたところで、まったく問題はありません。だから参議を呼び出して、手渡しするのでしょう。

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  ご存知のように、貴族社会は江戸時代の終わりまで細々と続いていきました。そんな幕末の摂関家に仕えた下橋敬長が、大正時代になって当時の様子を振り返って語ったことが、『幕末の宮廷』(平凡社、1979年)という本になって出版されています。その中には、こんなお話が登場します。
  ある夜の儀式のこと、会場には貴族たちが居並ぶ中、下級の役人が火をともすランプの芯を立てていたところ、うっかりランプを落としてしまい、ランプの油が、貴族の服装、膝のところかかってしまいました。下級役人はあわてて「どうもすみません」と謝るのですが、これが大問題になりました。油をこぼしたことではなく、下級役人が身分の高い貴族に直接言葉をかけたことが問題になったのです。
  現代を生きる私たちには想像もつかないことですが、身分の差というものは、こうも厳然と貴族社会に横たわっていたということを、忘れてはなりません。

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  ところで、今回お話した土代を投げることは、『勘仲記』『吉続記』『公衡公記』といった鎌倉時代の貴族たちの日記ではよく見かけるのですが、平安時代、とりわけ道長の時代の日記では、私はまだ、こうしたやり方を見つけることができていません。この時代には、土代を投げることはあり得たのでしょうか。
  まだわかりませんが、これからも史料を探す努力を続けたいと思います。ただし大事なことは、土代がこの時代に登場するということ。土代は本来の政務には必要のない非公式の文書でした。土代が非公式の文書であったからこそ、それを投げて渡す、というやや乱暴な方法も許容されたのではないでしょうか。そのように見れば、『上卿故実』に見える「土代ヲ投ゲ遣ル事」というルールの成立にとって、道長の時代が重要な起点であったことは動かないと思っています。