学校による選別を拒否する子どもたち

少し遅くなりましたが、前回の続きです。

学校は何かを教える場所であるはずなのに、現状ではそうなっていないとハーンドンは考えるようになります。

学校の目的は教えることではない。学校の目的はできる子とできない子を選り分けることだ。

The school’s purpose is not teaching. The school’s purpose is to separate sheep from goats. (p.96)

ハーンドンがこれに気づいたきっかけは自分の子どものある朝の反応でした。いわゆる「良い学校」に入っていた7歳のジャックは、成績もよく生活態度も申し分なかった。

では、なぜなんだ。ある日、この良い学校に行く途中であの子はリンさんの店に急いで寄った。そして、入れ歯の形のガムを買った。噛む前に友達に見せびらかしてやろうとしたのだ。その時あの子は作文か算数の宿題を持ってくるのを忘れたのに気づいた。どうしてあの子は激しく泣き出したんだ。私がいくら慰めても無駄だったのはなぜなんだ。なぜあの子は恐れに震えていたのだ。あの子には、あの良い学校の子どもたちの他の誰と比べても、恐れる理由はなかったはずだ。(p.91)

学校は子どもを選り分けるところである。学校が教えることを子どもたちの半数はすでに知っている。手を上げて答える子ども、つまり、すでに知っていた子どもは勝者である。知らなかった子どもは(たとえ知らなかったことを知ることができて喜ぶとしても)敗者である。ある学年で勝者であっても、次の学年では敗者に転落するかもしれない。子どもたちは毎年この振り分けにかけられている。それは小学校から始まり大学、大学院に至るまで延々と続く。このことを7歳にしてジャックはすでに正しく理解していたのだ、とハーンドンは気づいたのです。

この振り分けシステムの中で、選別にかけられることそのものを拒否する子どもたちが出てきます。彼らは「問題」のある子どもとみなされ、他の子どもとは別に扱われるようになります。ハーンドンの学校では、枠からはみ出したそういった子どもたちはある時期には「未成熟者(Immature)」と呼ばれていました。その言葉が流行らなくなると、今度はさかんに「非達成者(Non-Achiever)」と言われるようになります。どう呼ばれるにしろ、彼らは学校が勝手に作り出したものであるにもかかわらず、学校は彼らに向かい合おうとしない。そして、まるでそういった子どもたちの方に欠陥があるかのように扱う。ハーンドンたちは、CAから始まって、いろいろな形でそのような子どもたちのための特別な授業を担当していました。学校にとって都合がいいことに、彼らを特別扱いすることによって、問題は適切に処理されていることになる。片や選別作業は滞りなく進んでいく。しかし、ハーンドンたちはとうとうそれを拒否します。

特別なグループという重荷を子どもたちに負わせるのはもうたくさんだ。私たちは、少しばかり悪意を持って、自由の身になった非達成者たちを8年生の教室に送り込む覚悟を決めた。私たちは通常の授業をさせろと要求した。(p.133)

「何だって、実験的授業はもう出来ないってことかい?」と学校は言いますが、ハーンドンたちは「私たちの人生は実験ではない」と冷たく言い返します。

ハーンドンに加えて、アーパイン、ビル、アイリーンの計4名の教師、カウンセラー数名と副校長は強い団結の下で、自分たちが何をするべきかを徹底的に議論します。(新しい校長は何から何まで全部気に入らなかったけれども、全面的にサポートしてくれたそうです。)彼らは最終的に次のような決意、原則(decisions, principles)に至ります。何を教えるべきか考えもせず、日々子どもたちを選別している学校に対するハーンドンらの評価は非常に厳しいものです。そして、「それは陳腐であり啓示のようにはまったく聞こえない(p.128)」ことを彼らは自覚しています。

子どもたちの人生にとって【現在の学校は】完全に無意味(absolutely irrelevant)である。子どもたちは学校を全く必要としていない(中略)子どもたちは自分たちが学びたいものを、学校に妨害されて学べない。(中略)これを意味のあるものにする方法はない。なぜなら、そんなことはできるはずがないからだ。(中略)革命が起こるのを待って、当分の間くだらない作業をしているわけにはいかない。(中略)どこにいようと、今何をするかを決めなければならない。

人間というものはどちらかというと似ている面が大きい。大人の教師の私たちが大切だと考えることを、たぶん子どもたちも大切だと考える。

大人が何をするかを決めるのは構わない。決めるべきだ。他に決められる者は誰もいないのだから。子どものやることを決められないなら、大人は他に何の立つのか。しかし、本当に必要なことを考えて決めなければならない。大人の都合で決めてはならない。習慣に従うだけではダメだ。すでに死んでしまった人たちの決定を受け入れるだけではダメだ。そんなことを決定と呼んではならない。(後略)(p.129)

学校のやっていることが全く無意味であるというのは大変な極論で、この点に関して私はハーンドンに100%同意することはできません。現在の日本と当時のアメリカでは事情も違います。また、大人が子どもの学ぶものを責任持って決めるべきだというのも、大学など高等教育には当てはまらないでしょう。しかしそれでも、今の日本の大学の教育においても、その主要な役割が教えることよりも選別することになっていないかと問われれば、自信を持ってNOと答えることは私にはできません。

さらに考えさせられるのは、そもそも大学進学者は学校の選別システムで生き残った人たちであるという事実です。私たち教員も同じです。選別に生き残った私たちは、ひとまずは眼の前にいる同じく選別に生き残った進学者に何を教えるべきかを考えないといけないのですが、実際はその後ろにはいわば選別でふるい落とされた多くの若者たちがいます。高等教育はそういう人たちを無視して成り立つものなのか。こんなことを言うと「そんな余計なことは考えず、現実に目の前にいる学生たちのための教育を考えればよい」と言われるかもしれません。しかし、現状を踏まえた上で、広い視野を持って日本の、世界の教育全体について考えることは、人文学の本来の領分に属すると私は思います。(私自身まだまったく答えはないのですが。)

ハーンドンに戻りますが、「今何を教えるべきか」に対して彼らの出した結論は「読み書き(read and write)」でした。読み書きは「この国の中で対等な者となるため(in order to become equal in the country (p.128)」に欠かせないことを彼らは子供たちに同意させ、サボリは絶対に容認しない、厳しい授業を行うようになります。

読み書きは学びを続けるために欠かせません。そして、学び続ける力の大切さは初等教育であろうと、高等教育であろうと変わらない。私たち人文学部も、成績評価とは別に、すべての人文学部生、大学院生がそれぞれのレベルで学び続ける力や態度を身に着けられる、そんな場になりたいと思います。

長くなりましたが、ハーンドンの本の最後の部分を紹介して終わりにします。

ハーンドンのクラスにリチャードという子ども(ときどき精神科医にかかっている)がいました。彼の作った精巧な地図は教師、クラスメートを驚かせますが、彼はしばしばクラスメートに「お前に魔法をかけてカエルにした、お前はもう動けない」と言ってきかないので、回りから冷たい目で見られている。ところがなぜかティゾという親分肌の少年がよくそのリチャードの相手になっている。ある時ティゾは、たまには他の子を「クソバカ(asshole)」と呼んでもいいんだということをリチャードに納得させようとします。リチャードはそんなことをする意味がわからないと言いますが、ティゾはいろいろと理由をあげて説明する。リチャードはティゾの言うことに反発し、最後にプラカードを掲げて抗議します。

自分が大した人物だと思っているある8年生が、ジュリアス・シーザーになって他人にやるべきことを命令しようとしています。8年生全員が団結して彼にこれをやめさせなければなりません。(p.191)

押し問答が続きますが、

その時、突然それが終わりになるのでした。それがいつか私はよく分かっていました。ベルが鳴って、ティゾが読み取り(Reading)の授業に行く時間になるのです。アイリーンがトイレにも行かせてくれないのでティゾが頭に来ている授業です。— ベルが鳴っても、ティゾは部屋の中でじっと立ったままなのでした。私は「行けよ、ティゾ」と言いますが、彼はこう言うのです。「すみません、ハーンドン先生、読み取りには行けません。リッチが僕をカエルにしてしまいました。」この後はといえば、ティゾとリチャードと私と回りの子どもたちは皆笑い転げ、私はティゾの背中を叩き、彼は出て行きながら私の肋を打ちます。リチャードは歯をむいて、まるで応援団のように両手を上げながらスキップして出ていきます。私たちは皆ほんの一瞬、世界を通り抜けていく自分たちの行程の愚かさと理不尽さを認識し、その途上の唯一の報酬としてごくたまに偶然生じる無上の喜びに打たれるのでした。(p.192)

なんとも美しい結末に脱帽です。
人文学部長 脇條靖弘