論語を読む

人文学の原点とも言うべき『論語』。そこには、教育や研究について、核心をつく記述が多い。それらが描く景色を、この「窓」から眺めていきたい。

(1)「力、足らざる者は、中道にして廃す。今、汝は、かぎれり」(雍也篇)
翻訳:実力の無い者は、途中で放棄する。前進できないのは、自分で限界であると決めつけているからである!

孔子の一生は、挫折につぐ挫折。失敗ばかりを繰り返す自分と向き合い続け、自分を理解してくれる者を求めて旅に出たのは、なんと齢五十も半ばを過ぎてからであった。放浪すること十四年。暗殺の危機にも、一度ならず遭遇した。「できないと分かっているくせに、やめられない男」。あてどない旅を続ける孔子を、そう批評する者さえあった。
それでも、孔子はあきらめなかった。「とにかく、‘道’を目指して進むのだ!力不足と思った時は、休めばいい。年齢なんか忘れ、あと何年生きられるかなど考えることもない。毎日が努力、毎日が精進。怠けるべからず。死ぬ時こそがやめる時!」(『礼記』表記)と、あくまでも前を見続けた。これこそ、孔子が身を以て示した理想の君子の姿である。このような孔子であったればこそ、「力、足らざる者は、中道にして廃す。今、汝は、かぎれり」と言うことができたのである。
同じことを、孔子は次のようにも表現している。「たとえば山を築く時、あと少しで完成するというのにやめてしまったら、完成させなかったのは、誰あろう、この自分。たとえば大地を平らにする時、自分がほんの少しでも土をならせば、ならした分だけ平らになる」(子罕篇)、と。

前漢末の思想家・揚雄は、努力の重要性を川の流れに喩えて強調している。すべての川が最終的に海に到達することができるのは、海を目指して昼夜をおかず流れ続けるからである。君子もまた、自らの不完全を克服しようと、善を目指す努力をたゆまず続ける。そのような生き様のなかにこそ、聖人に通ずる所がある。それゆえ孔子は、自分で自分の限界を作ることを嫌悪したのである(『法言』学行篇)、と。

「ようゆうた」。