論語を読む

この窓は、一昨年と昨年にそれぞれ一回、あわせて二回だけ開けました。時の経つのは早いもので、またもや一年が過ぎさり、再び窓を開けるべき時節を迎えました。しかし延び延びになっているうちに、熱中症になりかねない時期も通り越し、もはや九月を過ぎてしまいましたので、思い切って開けることにしました。

(3)夫れ仁者は、己、立たんと欲して人を立て、己、達せんと欲して人を達せしむ(雍也)

翻訳:そもそも仁者とは、自分がやりたいと思ったことを他者にやらせ、自分が達成したいと考えたことを他者に達成させる。

孔子学説の究極の教えは、「仁」にほかならない。しかし、孔子は相手の状況や必要性にあわせて具体的に説いているため、仁が何を意味するのかについては、明確なイメージを結びにくい。そのなかで、孔子が子貢との対話の中で述べたこの一文は、最もわかりやすい説明の一つである。一般にこの文章は、先ず「克己」に基づき、すなわち自分の願望より他者のそれを優先して、自分の方から働きかけて、他者の願望が実現するようにすることを強調していると考えられている。それが仁だというのである。

『論語』理解に関して、示唆的な記述を多く残している漢の揚雄は、その著『法言』君子篇で、この点を敷衍して次のように述べている。

人は必ず先ず何かを行い、その後で、他者がそれに適当な名称を加える。必ず先ず自分から何かを求め、それに応じて他者が与える。必ず先ず自分の方から愛した後に、他者も愛してくれる。必ず先ず自分の方から敬した後に、他者も敬してくれる。自分の方から愛するのが仁の至り、自分の方から敬するのが礼の至りである。自分の方から愛しもせず敬しもせずして、他者が愛し敬することは、かつて無かったことである。

他者に先立って愛し敬することができる人物が、仁者であり、仁とは他者の行為を待つことなく、自分から行うことだ、というのである。要するに、この一文は、仁者の自己修養の内容を示している、と読むのである。こうした理解は解釈として何も問題はなく、私もこれまで、そのように理解してきた。

しかし、この一文において重要な位置を占めながら、従来あまり深く追求されてこなかった「立」と「達」の字義について、古典解釈の最もオーソドックスな方法としての内証による解釈を行い、それに基づいて「再読」を試みると、以下のように新しい理解を提出することができる。内証による解釈とは、古典自体の内部に論拠を見出して解釈することであり、要するに『論語』に登場する文字(単語)の意味を、『論語』における用例に基づき帰納法的に明らかにしたうえで、その文字が用いられている文章の意味を理解する、という方法である。まずは『論語』に見える「立」と「達」の用例に基づき、それぞれの字義を探ってみよう。

「立」に関して。単純に起立するの意を表すこともあるが、多くの場合、以下のいくつかの用例に見えるように、人が人として自立する、という意味を表す。

爲政篇 三十にして立つ(三十才で理想を目指す道に立つことができた)。

里仁篇 位無きを患えず、以て立つ所を患えよ(職位が無いことではなく、人として何に依って立つのかを悩め)。

季氏篇 礼を学ばずんば以て立つこと無し(礼を学ばなければ、人として立つことはできない。なお『論語』全篇の最終章にも、ほぼ同意の「礼を知らざれば、以て立つこと無し」という語が見えている)。

学而篇 君子は本を務む。本立って道生ず。孝弟は、其れ仁を爲すの本か(君子は人として最も大切な根本の修得につとめる。根本ができあがって、人としての生き方が明確となる。孝悌こそが、仁を身につける根本である)。

以上によれば、「立」とは、人が自覚的に理想を目指す立場を獲得すること、特に礼や孝悌を体得して世の中に君子として立つことを意味する、と考えられよう。

つぎに「達」について。物理的に到達する、通ずるのニュアンスも含むが、基本的には以下の用例の如く、物事を根源的に理解する、真理を体得する、実現する、といった意味である。

顔淵篇 樊遲仁を問う・・・樊遲未だ達せず(樊遲が仁について孔子に尋ねた・・・樊遲はなお充分に理解できなかった)。

季氏篇 義を行い以て其の道を達する(自ら義を行うことにより道を天下に実現する)。

憲問篇 下學して上達す(人間世界の現象から学び、深遠なる真理を究める)。

顏淵篇 子張問う、士、何如なるをか斯れこれを達と謂うべき、と。・・・子曰く、夫れ達は、質直にして義を好み、言を察して色を觀、慮って以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す、と(子張が、いかなる士を「達であると言えるのでしょうか、と問うた。孔子は、達なる者は、素樸にして真っ直ぐで義を好み、相手の言葉を洞察し、表情・態度を観察し、深く慮って謙遜につとめる。そのような人物は、邦においても、家においても必ず「達」であると言われる)。

以上によれば、「達」とは、人として生きる根本原理に通達し、それを自らの処世において実践しうる状態にいたることを意味する、と考えられよう。ちなみに『中庸』に、「孔子曰く」として、「天下の達道は五、・・・知仁勇の三者は天下の達徳なり」とあり、朱子は「達道」について、「天下古今の共に由る所の道なり」、「達徳」について、「天下古今の同じく得る所の理なり」と注をしている。この場合の「達」は、空間・時間を越えた普遍性を有する、という意味の形容詞である。また清代の学者、阮元に、達字についての専論「釋達」(『揅経室集』巻一)があり、春秋時代におけるこの文字の位置づけは後世とは異なって極めて重く、「聖」に近い意味で用いられていたことを指摘している。さらに、その具体的な字義は、学問が明通し、思慮深く人と争わず、言葉遣いや態度が素樸正直で、世族や国における処世に障碍がないという意味であった、としている。これらをあわせ考えると、孔子の言う「達」は、人として理想的な状態、君子になることを意味する、と考えてよい。

こうして「立」「達」それぞれの字義を明確にした後に、原文の「己、立たんと欲して人を立て、己、達せんと欲して人を達せしむ」にもどると、その文意は、自分が君子として自立することを望むなら、まず他者を君子として自立させ、また物事の道理に通達して君子になろうと思うならば、まず他者を君子にならしめよ、と理解できる。

このような新しい理解が成立するとすれば、この一文から、孔子の思想に関する重要な論点を読み取ることができる。すなわち、君子になることを望む者は、自分のみならず他者を君子にする努力もしなければならない、という主旨は、要するに、「教化」の必要性を唱えている、ことになる。

教化とは、孔子が提唱して以来、戦国時代以降、おそらくは近年に至るまで一貫して中国社会に浸透していた政治理念であり、政治的上位者が自らの身を正して模範を示し、その態度・姿勢によって民を感化・教導して、社会全体の秩序形成を行うという考え方である。別に「修己治人(己を修め人を治める)」とも言う。

『論語』では、従来、以下の文章が孔子の教化思想を反映していると考えられてきた。

顔淵篇 子、善を欲すれば、民、善となる。君子の德は風、小人の德は草。草、これに風を上うれば、必ず偃す(あなたが善なる処世を目指せば、民は善なる処世をおくる。君子の徳は風、小人の徳は草であり、風が吹けば、草は必ずなびいて倒れる)。

顔淵篇 子、帥いるに正を以てすれば、孰か敢えて正しからざらん(あなたが率先して正しい処世を歩めば、不正なる処世を歩む者はいなくなる)。

子路篇 其の身正しければ令せずして行われ、其の身正しからざれば、令すと雖も從わず(自らが正しければ、命令を下さずとも、人々は自覚的に行う。逆に自らが正しくなければ、命令を下しても、人々は従わない)。

これらの文章に比して、いま新たな理解を試みている一文は、教化思想をより直接的かつ明白に説いている。かつまた他者を教化することが仁者・君子としての要件であることをも明言している。あえて言えば、従来の理解は、仁者の自己修養、すなわち「修己」に主眼を置き、内証による新たな理解は修己に基づく「治人」に主眼がある。こうした点において、この一文は改めて注目されなければならない貴重な史料であると見なすことができる。

ならば従来の理解と、内証による理解のどちらが正しいのか。より正確に表現すれば、より孔子の真意に近いのか。これを判断するためには、この一文を、孔子がいかなる状況で子貢に対して述べたのかを知る必要がある。周知のように、『史記』孔子世家あるいは「仲尼弟子列伝」は、『論語』に見える孔子や弟子達の言葉が、どのような状況で発せられたのかを具体的に記している。しかし残念なことに、この一文に関しては、手がかりは一切ない。したがって、読み手が別に根拠を見出して判断しなければならない。

まず確認すべきは、二つの理解は、決して矛盾しているわけではなく、どちらかが間違いということではない。従来の理解によれば、この一文の主旨は、仁者とは自己を抑えて、他者の願望を優先することできる人物である、ということであり、「立」や「達」字は人間の願望の一例として持ち出されているだけで、別の動詞に置き換えることも可能である。たとえば、「己、食らわんと欲して人に食らわせ、己、飲まんと欲して人に飲ましむ」としても、主旨は変わらない。つまり、この一文は、具体的な行為を念頭に置いて、仁者のありよう(修己)を説明している、ということになる。

これに対して、内証による理解によれば、この一文の主旨は、君子は他者を導き君子たらしめなければならない(修己治人)、ということであり、「立」や「達」字は、君子たる者の本質にかかわる重要な概念で、他の文字との置き換えは不可能である。ただし、君子になりたいという自己の願望を抑えて、まず他者を君子にする、というように克己と他者を優先することに焦点を当てるならば、従来の理解と同じ方向で理解することも可能である。あえて言えば、内証による理解(修己治人)は、従来の理解(修己)をその一部に内包しているのである。

こうした点を確認したうえで、いずれの理解が、孔子の真意に近いのかを判断する手がかりは、この一文の文脈的な位置と、対話の相手である子貢という存在にあると思われる。

文脈的な位置というのは、この一文は、以下に引用するように、『論語』としてはやや長めの一章の一部分であり、当然ながら、その文意は前後の文脈に照らして理解すべき、という意味である。

子貢曰く、如し博く民に施して、能く衆を濟うこと有らば、何如。仁と謂う可きか、と。子曰く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶おこれを病めり。夫れ仁者は、己、立たんと欲して人を立て、己、達せんと欲して人を達せしむ。能く近くに譬えを取るは、仁の方と謂う可きのみ、と(子貢が尋ねた。かりに博く民に施して、多くの人々を濟うことができれば、その人物はどう評価すべきでしょうか。仁者であると言えるのでしょうか、と。孔子が応えた。仁者にとどまらず、聖人に違いない。それは、かの堯舜すらも実現について苦悩した難題である。そもそも仁者は、自分がやりたいと思ったこと(君子として自立すること)を、他者にやらせ、自分が達成したいと考えたこと(物事の道理に通達して君子になろうと思うこと)を、他者に達成させる。自分の身に照らして他者を思いやることが、仁を実践する方法である、と)。

孔子は、「民に施し衆を濟う」ことは、堯舜ですら困難とした課題であり、それができれば、仁者どころか、聖人の域に達している、と述べた後に、「夫れ仁者は、己、立たんと欲して人を立て、己、達せんと欲して人を達せしむ」と、続けていたのである。つまり、問題の一文は、「民に施し衆を濟う」ための方法として述べられ、それが難しい、というのである。

ならば、「民に施し衆を濟う」とは、具体的にどのようなことを指すのか。この点については、孔子が弟子とともに、衛の国を訪れた時の言葉が参考になる。すなわち衛国の人口が多いのを見て、まず彼らを富ませ豊かにすることが必要だと述べた。さらに、豊かにした後には何が必要か、と弟子から問われると、彼らを教化して君子にすべきである、と応えている(子路篇)。これによれば、「民に施し衆を濟う」とは、経済的な生活を可能にしたうえで、彼らを教化することを意味するに違いない。

そもそも孔子は、自己認識において、堯舜には遠く及ばないと考えていた。すなわち、自分は、「仁と聖」については到達・実現できず、それに向かって努力できるのみである(述而篇)。それに対して、堯は天にのっとる政治により、「成功(大きな政治的業績)」と「文章(文化的な創造)」を成し遂げた偉大な君主(泰伯篇)であり、舜もまた南面するのみで「無為(修己治人の教化政治)」を以て治めることができた偉大な君主(衛霊公篇)であった、と述べている。

このように孔子が理想とする聖人であり偉大な君主である堯舜にとって、「民に施し衆を濟う」ことは当然、単に物質的・経済的に施して濟うことではなく、教化を施し彼らを濟い、君子にすること(修己治人)を意味したに違いない。

なお、注目すべきことに、『論語』には、堯舜すら困難を感じた課題が、もう一箇所、「憲問」篇にも見えている。そこでは孔子が君子について次のように述べている。すなわち君子とは、「己を脩むるに敬を以てする(敬によって自己を修養する)」だけでは不十分で、「己を脩めて以て人を安んずる(自己を修養して同族の人々を安んずる)」ことに努める必要があるとし、そのうえさらに「己を脩めて以て百姓を安んずること」は、「堯舜も其れ猶これを病めり」と述べている。これは明らかに、教化説、すなわち「修己」に基づく「治人」の対象が、族人を越え「百姓(社会の全成員)」に及ぶと、堯舜にとっても実現が難しくなる、と述べているのである。

以上のように孔子は、堯舜すらが困難とした課題について二箇所において言及しているが、いずれも教化、すなわち修己治人の難しさを指している、と考えられる。こうした文脈から考えると、この一文に対する解釈は、内証による理解によらなければならない。

判断を行うためのいま一つの手がかりは、対話の相手である子貢である。孔子にとって最愛の弟子は、顔回と子路であるが、子貢も両者におとらぬ重要な弟子であった。まず『論語』に限れば孔子との対話回数が最も多いのが子貢であり、孔子に対して本質的な質問を行い、しかも重要な言葉を数多く引き出している。たとえば、「一言にして以て身を終うるまで之を行う可き者有りや(死ぬまで行うべきことを一言で表言した言葉はあるでしょうか)」と単刀直入に問い、「其れ恕か。己が欲せざる所、人に施すこと勿かれ(それは恕である。自分が人からされたくないことを、人にすることなかれ)」という至言を吐かせている(衛霊公篇)。

そのほか孔子に対して、君子(為政篇)、士(子路篇)、友(顔淵篇)、政治(顔淵篇)は、それぞれいかにあるべきかと尋ねており、多くが政治に関する内容である。また『史記』貨殖列伝によれば、孔門を離れた後、衛に仕えて商才を発揮し、弟子達の中で最も富裕となり、財力を利用して王侯貴族と対等に交わり、孔子の名を天下に広めることに寄与したという。

加えて特筆大書すべきは、魯の貴族・季康子から、子貢について、彼は政治に携わらせることができますか、と問われた孔子が、子貢は「達なり。政に從うに於て何か有らん(彼は道理に通達し、それを実行できる人物であり、政治に携わるにあたり何の問題もない)」(雍也篇)と応えていることである。

季康子と孔子の対話は、『論語』にも、あわせて六度見えている。孔子はそのうちの五度において、政治の本質は「修己治人」であることを前提として、政治的上位者の処世が最も緊要である、と唱えている。以下に、これまでの引用との重複を顧みず、それらの全てを引用してみたい。

為政篇 季康子問う、民をして敬忠となり以て勸ましむること、如何せん。子曰く、之に臨むに莊を以てすれば、則ち敬となり。孝慈なれば、則ち忠となる。善を擧げて不能を敎うれば、則ち勸む(季康子が尋ねた。民に敬と忠の心を持ち、それに基づき善に向かわせるには、どうすればよいのでしょぅか、と。孔子が応えた。民に対して厳粛なる処世を以て臨めば、民は敬となる。孝慈なる処世を以て臨めば、民は忠となる。善なる者を登用し、不善なる者を教化すれば、民は善に向かって進む、と)。

雍也篇 季康子問う、仲由は、政に從わしむる可けんや、と。子曰く、由は果なり。政に從うに於いて何か有らん、と。曰く、賜は、政に從わしむる可けんや、と。曰く、賜は達なり。政に從うに於いて何か有らん、と。曰く、求は政に從わしむる可けんや、と。曰く、求は藝あり。政に從うに於いて何か有らん、と(季康子が尋ねた。仲由すなわち子路は、政治に携わらせることができますか、と。孔子が応えた、子路は果断であり、政治に携わるにあたり何の問題もない、と。季康子が尋ねた。賜すなわち子貢は、政治に携わらせることができますか、と。孔子が応えた。子貢は達であり、政治に携わるにあたり何の問題もない、と。季康子が尋ねた。求すなわち冉求は、政治に携わらせることができますか、と。孔子が応えた。冉求は多才であり、政治に携わるにあたり何の問題もない、と)。

顏淵篇 季康子、政を孔子に問う。孔子對えて曰く、子、帥いるに正を以てすれば、孰か敢えて正しからざらん、と(季康子が政治について孔子に尋ねた。孔子は応えた。あなたが率先して正しい処世を歩めば、不正なる処世を歩む者はいなくなる、と)。

顏淵篇 季康子、盜を患い、孔子に問う。孔子對えて曰く、苟しくも、子、欲せざれば、之を賞すと雖も竊まず、と(季康子が、民が盜みを行うことが多いことを憂慮して、孔子に尋ねた。孔子は、応えた。かりに、あなたが財貨に対する欲望を棄てれば、盗人には褒美を与えると言っても、民は盗みを行わなくなるであろう、と)。

顏淵篇 季康子、政を孔子に問う。如し無道を殺し、以て有道に就かしむれば、いかん、と。孔子對えて曰く、子、政を為すに、焉んぞ殺すことを用いん。子、善を欲すれば、民、善となる。君子の德は風、小人の德は草。草、これに風を上うれば、必ず偃す(季康子が政治について孔子に尋ねた。かりに、無道なる人は殺戮して、民を道有る方向に導けば、政治のありかたとしては、いかがでしょうか、と。孔子は、応えた。あなた自身が善なる処世を望むならば、民は善なる処世をおくります。君子の徳は風、小人の徳は草であり、風が吹けば、草は必ずなびいて倒れる、と)。

残りの一度は、季康子が孔子に、弟子の中で誰が最も「好學」であるかと問うたのに対して、孔子は、顏回という弟子だが、不幸にして短命に終わり、すでにこの世にはいない、と応えている(先進篇)。

なお、『上海博物館蔵楚竹書』第五册に「季康子問於孔子」なる一篇があり、その冒頭部分で、孔子は季康子の問いに応えて、「君子の大務」は「民を仁しむに徳を以てする」ことであるとし、次のように述べている。

君子は民の上に在りて、民の中を執り、教えを百姓に施す。しかるに民これに服せざるは、是れ君子の恥なり。是の故に、君子は其の言を玉とし行いを誠とし、敬して其の徳を成し以て民に臨めば、民は其の道を望みてこれに服せり。此れを之れ之を仁むに徳を以てすと謂う(君子は民の上に立ち、民に最もふさわしいやり方で、教えを施す。そうした努力にもかかわらず、民が従わないのは、君子の恥である。それ故、君子は自らの言葉を美しくみがき、自らの行いを誠にし、敬意を以て行動して民に臨めば、民は君子の正しい処世を望み見て、従う。これを民を仁しむに徳を以てする、と言うのである)。

この出土史料によって改めて確認できるように、孔子は、季康子との対話において一貫して、修己治人について語り続けている。それ故、孔子の子貢に対する「達なり」という評価もまた、修己治人を念頭に置いて、その語を用いたに違いない。そうであるとすれば、自らが「達なり」と評価した当の子貢との対話において「達」字を用いる場合も、君子による修己治人を意識していた蓋然性は極めて高い。

以上、二つの手がかりに基づき、内証による理解のほうが、孔子の真意により近いと考えることができよう。