論語を読む

この窓は、昨年、「『論語』を読む」という題のもとに設置しました。しかし一度開けたきりで、ずっと閉じたままでした。このたび、あまりに風通しが悪いので、もっと頻繁に開けろ、との御意見をいただきましたので、季節はずれの暑さにも迫られ、まる一年ぶりに開けることにしました。

(2)古の学者は己が爲にす、今の学者は人の爲にす(憲問篇)。
翻訳:かつて学問をした人々は、自分自身の人格向上を目的としていたが、現在、学問をしている人々は、他者の評価を得るために行っている。

この一文は、表面的に読めば、古の学者は自分のための身勝手な学問をし、現在の学者は利他的な学問をしている、とも理解できそうである。しかし、それは孔子の儒家思想の本質からは、かけ離れた誤った読み方である。儒家思想の根本原理とは、「己を修めて人を治む(修己治人)」、すなわち、ひたむきに自己修養に精励し続ける君子が、人としての有るべき姿を模範として示し(己を修め)、周囲の人々に人格的影響を及ぼし、最終的に社会全体を善に向かわせる(人を治む)という考え方である。

つまり、まず自身の人格的な完成を行うことが最重要の課題である。それは具体的には、仁や礼を体得することであり、そのために倦ます厭わず努力することが必要である。このように自らの成長のために学ぶことを、「己が為にす」と表現したのである。

これと同じことは、古くから多くの儒学者が口にしている。たとえば、性善説により理想社会の実現を目指した孟子は、朝廷における世俗的爵位を「人爵」とし、それを越える「天爵」なる概念を持ち出した。人は天から与えられた「貴き者」(告子上)、「四端(仁義礼智の端緒となるもの)」(公孫丑上)を、自らの「存心(意識的な自己反省)」と不断の努力によって成長させ、仁義礼智などの徳を身につけることが可能であり、またそうしなければならない。それ故、人はその人格の完成度に応じた地位を天から与えられるべきである。孟子はそれを天爵と呼び、世俗秩序としての「人爵」と対比させたうえで、人は天爵を修めることを優先すべきであり、人爵はその結果として得るもの、とした。そのうえで、古の人は、天爵を脩めること自体に努め、人爵はおのずと伴うものにすぎなかった。今の人は、天爵を脩めることを、人爵を得るための手段とし、ひとたび人爵を獲得すると天爵を棄ててしまう、と述べている。

一方、より現実的な立場から理想社会の実現を目指した荀子は、次のように言う。君子が道を聞く時には、耳から入れて、これを心にしまい、自らの仁を以てこれを検討し、信を以てこれを守り、義を以てこれを行い、謙遜の意を以て実践する。そのため、誰もが心を虚しくして君子の主張を聴き入れる。小人が道を聞く時には、耳から入れて、すぐに口から出し、軽率に言うだけである。譬えて言えば、飽食して吐くようなものである。単に肌や皮膚に無益であるばかりか、志においても間違っている。これが、まさに「古の学者は己が爲にす、今の学者は人の爲にす」、ということであって、君子(古の学者)は、自分自身を立派にするために学び、小人(今の学者)は、人に評価されるために学ぶのである、と(勧学篇)。

時代は下り、隋に仕えた貴族・颜之推が子孫に与えた教戒書『顏氏家訓』勉学篇には、古の学者の己のためにする学問は、自らの不足を補い、道を行って世の中の役に立つ。一方、今の学者の人のためにする学問は、ただ説明することができるだけで、出世を目的とする、とある。

我が吉田松陰もまた次のように述べている。人の師になりたいと望めば、自らのために学ぶ学問ではなくなる。ただ博学の物知りで、人から尋ねられて答えるだけである。これは世の学問をする人々の共通の弊害であり、我々も極力自らを戒めなければならない。おおよそ、学問を行う上で、最も大切なことは、「己が為にする」という点にある。自分の為にするのが君子の学問、人の為にするのは小人の学問である。自分の為にする学問は、人の師となることを好みはしないが、自然に人の師となることができる。人の為にする学問は、人の師になりたいと望んでも、結局は師となるには不充分である。それ故、博聞強記の学問では、人の師となるには不十分だ、と言うのである、と(『講孟箚記』離婁下第二十三章)。

民国時代の碩学・柳詒徴氏は、やや観点を変えて同じことを述べている。孔子の学問を伝えよう思うなら、口ではなく自ら実行で示すべきである。幼年から大人になり、老いて死に至るまで、常々自ら実践し、片時も休まず努め行い、朝に夕べに反省し、日常起居の間も常々心に留めなければならない。それでもなお孔子の言をどれほど実行できているのかは見当がつかない。いわんや自ら孔子の学を理解していると考え、議論し分析して、それによって得た結論を世に訴えるなど、もってのほかである。簡単に言えば、孔子の学を守り行うには、まず第一に身外のことに走ってはいけない。萬巻の書を読み、萬言の文章を書いても、ひとたび心が名誉に向かえば、その時点で孔子の教えに違背する。かりにも、この点を認識すれば、たやすく筆を執ることなどできるわけがない、と思われてくる(「孔学管見」、『国風半月刊』一巻三期、一九三二年)。

要するに、孔子は、学問とは自らの成長のために行い、それ以外のものを目的としてはならない、と教えているのである。これほど容易でありながら、同時に困難なことは、他にはなさそうである。学問の厳しさを再確認したところで、再び窓を閉じて、しばし熟考することにしたい。