学びを阻害しない評価方法

前回、前々回とハーンドンの著書を取り上げて、学校における成績評価と選別について書きました。ハーンドンの場合は中学校でしたが、大学ではどうでしょ
うか。大学での成績評価は学びを促進する役割を果たしているのでしょうか。

教員から学生へのフィードバックを「評価的(evaluative)」なものと「記述的(descriptive)」なものの二つに分類したときに、日本の大学の「秀、優、良、
可、不可」のような段階評価は前者の評価的フィードバックに当たります。後者の記述的フィードバックは、評価を与えるのではなく、学生が将来どうすれ
ばより有能になれるかの情報を与えるものです。「こうしたらもっとよくなるよ」というようなコメント、アドバイスを与えるわけです。これについて興味
深い研究結果があります。学生をA, B, C三つのグループに分けて、Aには評価的フィードバックを、Bには記述的フィードバックを与えます。Cには何のフィー
ドバックも与えない。そして、その後で「問題解決型」と「量的な作業」のテストをする。そうすると、大差でBが最もよい成績を残す結果になったそうで
す。Aは「量的な作業」ではCに勝るものの、「問題解決型」のテストでは差がなかったそうです。学生の学びの促進には、段階評価よりも改善点を示したコ
メントが有効だということがわかります。さらに面白いことに、コメントによる記述フィードバックに加えて、段階評価による評価的フィードバックも追加
与えてみたところ、その追加によってコメントの効果がなくなってしまうそうです。段階評価(grading)は学びを促進するどころか、それを阻害する要因
になっているのです。学生の気持ちとしては、コメントだけなら読むが、「良」とか「可」とかの評価がついてくると読む気にもなれないというところでしょ
うか。

これらの研究結果は、

評価を減らして(あるいは別のやり方にして)学びを増やす

というタイトルの論文(Jeffrey Schinske and Kimberly Tanner, Teaching More by Grading Less (or Differently), Life Sciences Education Vol 13,
159-166, 2014. オンラインで読めます)の中で紹介されています(p.161)。 この論文は段階評価について次のような判定を下しています。

学生に学びを動機づけるどころか、段階評価は多くの面で全く逆の効果を持っている。良い面があるとすれば、達成度の高い学生に高い段
階評価を獲得し続ける — その目標が学びと重なるかどうかに意を払うことなく — ことを動機づける程度である。最悪の場合には、
段階評価は学びへの興味を失わせ、不安をあおり、外在的な動機づけを高める。そしてそれはとりわけ学習に苦労する学生の中で顕著であ
る。(p.162)

この論文は、スティーブ・ボルクとベス・ベネディクス著の The Post-Pandemic Liberal Arts College: A Manifesto for Reinvention (Belt
Publishing, 2020)の中で参照されていました。この本は、小規模のリベラルアーツ大学(Small Liberal Arts Colleges = SLACs)の改革の必要性を訴える
ものですが、競争をあおる新自由主義的な社会の中で幅を利かせている業績主義、能力主義(meritocracy)が大学教育を蝕んでおり、そしてそれが新型コロ
ナ感染による混乱の中で表に出てきたのだと論じています。各大学はランキングの順位を上げることに血道を上げ、格差の是正に寄与するどころか、格差の
再生産に加担している。現状の大学教育は、少数の勝ち組の人間を親に持つ学生のためだけのものになってしまっている。このように彼らは主張しています。

ボルクとベネディクスの批判は成績評価にも向けられています。彼らは学生と教員のどちらに対しても段階評価は悪影響を与えていると言います。学生はプ
レッシャーから不正行為に走り(2016年にはハーバードの4年生の21%が不正をしたことがあるとアンケートに答えているそうです)、高い評価を確保するた
めに、創造性などには目もくれない。教員にとっては、学生が評価だけを気にし、教員自身が情熱を持って教えようとしている肝心の主題にまったく興味を
持たない授業ほど気の滅入るものはないでしょう。学生に共同作業をやらせる課題を出したいと思っても、そして、それが学びのためにはよいとわかってい
ても、楽をして良い評価を得る「タダ乗り」学生が出てきてはいけないというので、諦めざるを得ません。まるでゲームのように段階評価システムの中でう
まく立ち回ろうとするような学生は現実にはほんの少数かもしれませんが、そういう学生を警戒するあまり、豊かな学びの経験が得られる可能性が消え失せ
てしまっているのです。

これは、「協力」ではなく「競争」にあまりに力点が置かれすぎている新自由主義的社会の病だというボルクとベネディクスの主張には誠実に耳を傾ける必
要があります。大多数の人が敗者になってひと握りの勝者が利益を独占する競争社会の問題は最近よく指摘されるようになりましたが、大学教育こそ率先し
てその流れを変えていくべきではないでしょうか。(日本では、「厳格な成績評価」とか「成績評価の厳格化」によって大学教育の効果を高めるべきだとい
う議論を耳にしますが、進むべき道を見誤っていないでしょうか。)

具体的に、大学の授業の評価方法をどう変えればいいのでしょうか。ベネディクスは学生の自己評価に基づいた成績評価法を8年前から実施しているそうで
す。あらかじめ示された評価基準にしたがって、学生が授業を振り返って自分で自分の成績をつける。ただ、教員は成績を最終的に変更する権利は保持し、
学生の自己評価があまりに授業時の感触と違っている時には、評価を変更することができる。このやり方を始めて、授業の雰囲気が一変したとベネディクス
は言います。

この本ではこれ以外にもさまざまな成績評価の方法(学生相互評価、契約評価、文書やポートフォリオによる評価、努力や参加を見る評価)が提案されていま
す。また、すでにアメリカの多くの大学でそのような試みがなされており、中には段階評価そのものを廃止したところもあるということです。たとえば、ベ
ニントン大では学生は詳細な文章による評価(narrative evaluations)を受け取ります。日本の「秀、優、良、可、不可」のような段階評価は希望すれば追
加でもらえるとのこと。

ボルクとベネディクスによると、これらの評価方法の屋台骨を支えているのは学生による自己評価だといいます。私も遅ればせながら、自分の授業の成績評
価に学生の自己評価を取り入れることを考えています。

人文学部長 脇條靖弘