人文学を学ぶのは民主主義のため

前回紹介したアンダースの著書は、人文学の力こそが経済、産業の分野で役立つと論じていました。これに対して、マーサ・ヌスバウムは著書 Not for Profit: Why Democracy Needs the Humanities – Updated Edition, Princeton UP, 2016 (初版の日本語訳:『経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由』、岩波書店、2013)の中でまた別の側面から人文学の重要性を主張しています。

人文学は民主主義のために必要だ

というのが彼女の考えです。残念ながらアメリカでも大学教育のあり方を考える立場にある人たちの多くがこの点を見落としているようです。教育はGDPの道具に成り下がり、経済成長に貢献する人材を養成することにのみ目が向けられ、しかもそれは理数工技の教育でのみ達成されると信じているのです。(最後の点はアンダースによれば誤りですが。)ある有名な大学(X大学)の教育担当の責任者の女性から助言を求められた時のことを、ヌスバウムは次のように回想しています。

私は、民主主義的市民のための教育の中で人文学と芸術が果たす役割について話し始めた。私はだれでも知っていること、当然のことを話したつもりだったのだが、これを聞いた彼女は驚きの表情でこう言っ た。「なんて斬新でしょう。そんなことを私に言ってくれた人はこれまで誰もいませんでした。私たちがこれまで議論して来たことといえば、どうやって世界の中でX大学が科学、技術の教育に貢献できるかということだけでした。学長もそれしか考えていません。でも、あなたのおっしゃることは本当に興味深い。私もそれについて考えてみたいと思います。」(翻訳:脇條)

近視眼的に利益追求に焦点を絞ることは、結局は健全な民主主義と世界の希望を危機にさらすことになる、とヌスバウムは警鐘を鳴らします。健全な民主主義を支える市民に不可欠な力は何か。それは権威を批判できる力、周辺に追いやられた少数派に共感できる力、地球規模の問題を大局的に見ることができる力だとヌスバウムは考えます。そしてこれらの力の根本にあるのは、人間の普遍的な傷つきやすさ(vulnerability)の認識である、と彼女は言います。

民主主義と傷つきやすさがどう結びつくのか。ヌスバウムは次のように考えています。民主主義は面倒なものです。みんなの意見を出し合って議論して最後は多数決でやり方を決めるというようなわずらわしい手続きはやめて、賢い人が一人、あるいは数人で何でもさっさと決めてしまう方がずっと効率がよく、また結果もよいのではないか、と思ったことはないでしょうか。しかしそれはヌスバウムの言葉で言うと「完全制御の神話 (the myth of total control)」にすぎません。実際には私たちはみんな弱くて傷つきやすい不完全な存在であり、完全な制御はできず、お互いの必要を補い合う相互依存こそが理想の状態である。このことを認識しなければ健全な民主主義は成立しない。この認識を欠いた民主主義は、形ばかりのものとなり、多数者は少数者を単に劣った者、欠陥のある者として排除し烙印を押し、その求めを顧みず、世界が抱える問題を解決するどころか悪化させることになるだろう。こうヌスバウムは考えているのです。

そして、ヌスバウムは人文学こそがこの傷つきやすさの認識を、そしてそこから健全な民主主義を支える力を育むと言うのです。

私はヌスバウムに共感します。人文学は民主主義を健全なものにする。その上、アンダースの言うようにGDPの道具にもなる。よいことばかりではありませんか。

人文学部長    脇條靖弘