『ナポリの物語』を読んで

最近、エレナ・フェッランテの『ナポリの物語』四部作を読みました。人文学の価値を論じている別の本で取り上げられていたのがきっかけだったのですが、読み始めてすぐその魅力に引き込まれてしまい、かなりの長編にもかかわらず、途中何度も涙を流しながら最後まで一気に読んでしまいました。(最近年なのか涙もろくなっていて、ごく普通の時代劇を見ても泣いているので、妻にあきれられています。)主人公のリラとエレナだけでなく、どの登場人物にもどこかで光り輝く瞬間があるのは、まるでホメロスの英雄たちのようだと感じました。

この作品の文学的価値について私は論じる力はないのですが、この小説の一つの大きな要素が「書くこと」 — 人文学とは切っても切り離せない要素 —であるのは間違いないと思います。エレナは文筆家を目指し、実際文筆家になりますが、幼馴染のリラならどう書くかと常に考えている。エレナは、リラならきっと完璧なものを書くに違いないと感じ、自分の書くものには何の価値もないのではないかという考えに最後まで苦しみながら、それでも書くことを続けます。

私はなぜこう書いたのか。単に「そう書くのが都合がよかったから」ではないのか。そんなものに価値があるのか。この問いを肝に銘じておくことの大切さをこの本から教えられました。エレナは極めてよく勉強し、社会の混乱した状況の中に一筋の一貫した道を見つけ、それを文章に綴ることができるようになっていきます。そして、エレナは作家として世間に認められるようになります。しかし、エレナは自分ではなくリラこそが本物の文筆家であり、もしリラが書けば、その輝きで自分の書いたものは一瞬で霞んでしまうことを思い知っている。自分は結局、文筆の世界で成功する書き方を目ざとく見つけるという世渡りの術を使っただけなのではないか、そうエレナは考える。(これがどう落着するのかは読んでのお楽しみに。私は小説の最後の謎に頭を悩ませています。)

リラのキャラクターは圧倒的で皆を虜にするのですが、私たちはエレナにしかなれない。それでも私たちはリラを目指して悪戦苦闘する。到達できなくても、リラを目指してもがき苦しむ。何を書くにしろ、私たちの書くという行為はそのようなものであり、そうあるべきではないでしょうか。

人文学部長    脇條靖弘