【教員著書刊行情報】山口大学大学院東アジア研究科編著『東アジア文化の歴史と現在』

本学大学院・東アジア研究科における、近年の研究活動および成果を集約する一冊として、2022年2月に刊行された『東アジア文化の歴史と現在』(東アジア研究叢書⑥)をご紹介します。収録された論考の著者の多くは、人文学部・人文科学研究科所属の教員でもあります。ここでは本書刊行の由来や趣旨をお伝えするため、書誌情報・目次とあわせて、責任編集者のお一人、森野正弘教授による「序言」を掲載いたします。ぜひご覧ください。

【書誌情報】
国立大学法人山口大学大学院東アジア研究科編著(森野正弘・富平美波 編集責任)
『東アジア文化の歴史と現在』(東アジア研究叢書⑥)白帝社、2022年
ISBN:9784863984462
版型・頁数:A5版・全272ページ
定価:4,950円(本体4,500円+税)


【目次】
序言 東アジア文化の歴史と現在(森野正弘)

Ⅰ 社会学・歴史学的接近
第1章 日本社会におけるアオの変化をめぐる一考察―絵本における青鬼の色の変化を事例として―(小林宏至)
第2章 天譴論の進化心理学的基盤―災害を天罰と感じるヒトの心とその由来に関する一考察―(高橋征仁)
第3章 祭りから見る遠州―西と東の接点―(谷部真吾)
第4章 韓半島古代都市の成立過程(朴淳發)

Ⅱ 言語学的接近
第5章 『續通志』「七音略」の「門法解」に見える反切例について(富平美波)
第6章 『百夷館訳語』来文に見られる明代漢語の表音システムについて(更科慎一)
第7章 ベトナム人日本語学習者の卒業論文・修士論文に見られる書き言葉と話し言葉についての一考察(Nguyen Thi Bich Ha)

Ⅲ 文学的接近
第8章 白居易の祥瑞思想と『竹取物語』の祥瑞兆候―白氏祥瑞思想受容の可能性―(徐鳳)
第9章 加藤幸子の「北京」記憶とノスタルジア(肖霞・賀樹紅)
第10章 『源氏物語』朝顔巻の桃園の宮に集う人々―歴史と物語の交錯する時空―(森野正弘)
第11章 『或る女』における「夢遊病者」としての葉子像―「ヒステリー」を端緒として―(盧昱安)

【本書「序言」:東アジア文化の歴史と現在(森野正弘)】
20世紀が米国と欧州、乃至は米国とソ連の関係を基軸としたものであったとすれば、21世紀は米国と東アジアの関係が基軸となり、東アジアという地域が焦点化されることになるのではないか。そして、その動向は日本の将来を左右することにもなるであろう。このような未来予測のもとに、東アジアという地域が直面する課題、あるいはそこに伏在する問題を探究するべく、山口大学大学院東アジア研究科が2001年4月に開設された。

以来、研究科に所属する40数名の教員たちは、協同して教育業務に臨む一方、各々の専門性を活かすかたちで共同研究に携わってきてもいる。その共同研究の数々は、東アジアプロジェクト研究という名のもとで括られ、また、その成果物が東アジア研究叢書として発刊されてきた。今回、「東アジアにおける文化伝承の研究」という課題で活動してきたグループがいったん成果を集約し、それを世に問う時宜を得たため、東アジア研究叢書の第6巻として刊行する運びとなった。

本書を編む前段階として、私たちは2020年11月27日に「東アジア文化の歴史と現在」というテーマで国際学術フォーラムを開催した。海外の研究者をパネリストとして招聘し、知見を深める機会を求めてのものであった。当初は山口大学を会場として対面で実施する予定であったが、折しも、新型コロナ・ウイルスが世界的に蔓延したため、参加予定であった海外の研究者たちが軒並み渡航困難となり、急遽、On-Line で海外と会場を結ぶかたちへと実施形態を変更したことが思い起こされる。臨場感を損なったのは否めないものの、各パネリストの勤務する大学の学生たちや、東アジア研究科の修了生たちなど、海外に在住の人々が多く参観してくれたのは思わぬ副産物であった。

さて、本書のタイトルとして掲げる「歴史と現在」は、その国際学術フォーラムのテーマを引き継いだものとしてある。それは、“私たちはどこから来て、どこへ向かうのか”というアイデンティティに関わる根源的な問いを敷衍して換言したものである。このような問題に対し、本書では「東アジア文化」という観点からのアプローチを試みる。現状を顧みてみよう。グローバル化が進む現代社会では国家という枠組みが後退し、世界標準という尺度が前景化してくる。人々は否応なしにその尺度への準拠を余儀なくされもする。しかし、実際にそういった標準化によって露わとなったのは、単一化された世界に生きる人々の多様性ではないのか。そして、その多様性が最も顕著となる局面こそ、「文化」に他あるまい。

文化を論議する場合、従来型の発想では、国文学・国語学・国史学といったドメスティックな学問分野の知を動員し、それらを国民国家論や民族アイデンティティの形成といった主題に引き寄せて落着点を探るのを倣いとしてきた。しかし、それでは今日的な問題を掘り起こす契機とはなり得ない。国家という枠組みが後景化した現代社会において、文化の淵源と展開の様相は国家ではなく地理的圏域を視野に入れて追究されるべきだからである。ここに「東アジア」という圏域が浮上してくることになる。グローバル化が進む現代社会において、なおも人々が自らの帰属性を求めるとき、国家に代わって文化が浮上してくる。その文化を帰属性として求めてゆく心的機制がいかなるものであるかを具体化することが本書の目的である。

文化を論じる場は、ともすると自閉的なものになりかねない。それを回避するべく、本書の元となった国際学術フォーラムではパネリストを東アジアの諸国に求めた。即ち、中国、韓国、ベトナムの研究者たちである。彼らはいずれも日本文化に通暁しており、東アジアという圏域の中で日本文化を相対化する視点を持ち得てもいる。彼らのような、いわば〈外部〉の者たちの声を聴くことで、私たちは初めて自らの文化の立脚点を相対的に捉え直すことが可能となり、“私たちはどこから来て、どこへ向かうのか”という問いに一定の解答を導き出すことができるのではないか。そのような期待を胸に、本書でもパネリストとして登壇した朴淳發、Nguyen Thi Bich Ha、徐鳳、肖霞の四氏の論考を収めた。また、これら四氏の提言に応えるかたちで本書では社会学・民俗学・歴史学・言語学・文学研究の諸観点から東アジアの文化を論じている。

全11章の構成からなる本書では、各章の間で共鳴を発見することができる。例えば、古代における中国と日本の文化的交渉を論じた第8章と、近代戦時下における中国と日本の市井に生きる人々の交渉を論じた第9章とを対比することで、そこに通底する文化的基盤のあることが仄めかされてくるであろう。あるいは、第4章は古代の中国や朝鮮半島の地域において同様の都城の形式が伝播していく模様を追跡するものであり、第7章は現代のベトナムと日本との間で同様の言語様式が伝播していく模様を具体化するものであるが、これらの章からは、文明や文化といったものが国という単位を超えて交流を持つものであることを読み取ってもよい。その他にも、各章の間に共鳴を読み取る可能性は開かれている。その共鳴の数々は、しかし、体系化され得るものなどではなく、東アジア文化の多様性を担保するものとしてあることを申し添えておこう。