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G 平野 芳信

  • 2011-05-17 (Tue)

評伝村上春樹をめぐって(文:平野芳信)

 つい最近、『村上春樹 人と文学』(勉誠出版、2011年3月)を上梓したので、このコラムに寄稿することになった。少々、宣伝めいた内容になるかもしれないので、あらかじめお許し下さるようお願いする次第である。大体、人の苦労話や自慢話ほどつまらぬものはないのだが、研究者の末席を汚している以上、偶には日頃の成果を形にして世に問うことは、課せられた責務の一つであろうし、本という形にしたらしたで、一人でも多くの方に読んでほしいと思うのは人情というものではないかと思うのだ。その意味で、ご寛恕願いたいのである。

 さて、拙著であるが、これは「日本の作家100人」というシリーズの一巻として刊行されており、「評伝」と「作品鑑賞」の二部構成になっている。今回このコラムで話題にしたいのは、「評伝」に関してである。そもそもこの「日本の作家100人」というシリーズで取りあげられている作家のラインナップは、古いところでは大伴家持から、まだ現役で活躍中の村上春樹までのおよそ1300年という途方もなく長い期間を射程に入れたものなのである。

 執筆を依頼されて名誉なことと喜んで引き受けてはみたものの、すぐにそれは後悔に代わった。対象として扱う作家やその家族がすでに亡くなっている場合と違って、村上春樹は現役中の現役である。それどころか、日本人作家の中で最もノーベル賞に近いとまで巷間ささやかれている存在である。

 そんな作家の評伝を執筆することが、どれほどの困難を伴うのかがひしひしと分かってきたのである。加えて、個人情報保護法制定以降、プライバシー保護の名のもとに、個人に関する情報を他人が得て、それを公表することはもはや不可能に近い状況になっていた。正直な話、一時は承諾したものの辞退を申し出ようかとまで思い詰めたほどである。

 しかし、私をして最終的に今回の仕事を完遂せしめたのは、次に述べる体験であった。いわゆる足で稼いだ情報の多くを発表できない以上、春樹自身に語らせるという方法しか残されていないと私は考えた。そこで、村上春樹の小説だけではなく、エッセイ、対談、インタビュー等々を(それこそ断簡零墨にいたるまで)丹念に読み直していくうちに、自然にある物語というかストーリーが立ち現れてきたのだ。その物語に春樹の秘密とでもいうべき事象を合わせ鏡のように重ねるとそれまでとは全く違った景色が見え始めてきたのだった。

 私は文学研究において作品論乃至はテクスト論の方が、作家論よりも上位に位置するべきだという立場であった。そんな私が、村上春樹の評伝を書くことになるというのも皮肉といえば皮肉な話である。が、今の私は作品論を書くためには作家研究は不可欠であるというところまで考え方が変わってしまった。なぜなら、作家の身の上に実際起こった出来事を知った上で作品を読むとき、知らぬ時とは全く違う視点で味わうことできることを知ってしまったからである。

 その一例を挙げておこう。村上家は春樹の父、千秋氏の代まで、京都粟生の浄土宗石山光明寺住職の家系であった。祖父は晴朗な住職として孫春樹の心に刻み込まれているが、この人物には唯一欠点があった。それは酒が好きだということで、ある日、酔って線路の上で寝てしまい、路面電車に跳ねられて死んでしまったのだ。これはフランスのテレビ情報誌「テレラマ」のインタビューで、春樹自身によって明かされている事実である。

 この父方の祖父にまつわる悲劇的は、近くは失踪していた20日間の記憶を失うことになる胡桃沢の父親が、泥酔し線路の上に寝ていて都電に轢かれて死んだ僧侶というエピソードとして、短篇『どこであれそれが見つかりそうな場所で』(「新潮」H17〈’05〉・5 新潮社)の中で描かれ、遠くは『1973年のピンボール』(「群像」S55〈’80〉・3 講談社)の冒頭の章「1969ーー1973」で、他ならぬ井戸(春樹の小説を読んだことのある方なら、わざわざ「他ならぬ」と記した意味はお分かりであろう)掘り職人が「土砂降りの雨と冷や酒と難聴のせいで」電車に轢かれて「何千という肉片となってあたりの野原に飛び散」ったというエピソードとしても使われていた可能性が高いことに気づかされるのである。

 ことほど左様に、作家は現実に起こった出来事をフィクションとしての作品の中にさり気なく滑り込ませるのである。拙著は僅か1000円札2枚で購入可能である。今すぐ、書店なり、ネットなりでご注文いただきたい。決して損はさせぬはずである。

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平野 芳信

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【コース】

日本・中国言語文学コース

【分野】

日本文学

【研究領域】

日本近現代文学

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