Home 人文散歩

人文散歩

  • 2017-11-28 (Tue)

ハンセン病療養所を退所した人たちの実践(社会学コース 桑畑洋一郎)

はじめに

2017年10月1日に山口大学人文学部に着任した、桑畑と申します。よろしくお願いいたします。

自己紹介も兼ねて、どういう研究をしてきた/いるのか、過去の論文(もう6年前です…)を自分自身で紐解きながら、「こんなことを考えてきました/います」ということを示したいと思います。

今回取り上げるのは、「ハンセン病療養所退所者の医療利用実践」(←論文のリンクに飛びます)です。日本保健医療社会学会の『保健医療社会学論集』21巻2号(2010)91頁‐103頁に掲載されました。

 

論文の目的

この論文は、沖縄でハンセン病療養所を退所(「社会復帰」と表現されることもあります)して“社会”で暮らす4人の方へのインタビュー調査に基づいて書かれています。この論文では、「ハンセン病療養所を退所した今も、病気やけがなどの際にはハンセン病療養所に戻ってお医者さんにかかる」という状況があることを記述し、「何でそういうことになっているのか」を考察することを目的としています。

何でこの部分に僕が関心を持ったかと言えば、「療養所を退所しているからには当然病気そのものは治癒しているのに、また、療養所から退所する制度が他地域よりも比較的整っていた沖縄なのに、何でそういう大変なことをするのか」と疑問に思ったからです。インタビュー対象者がお医者さんにかかるために通う沖縄のハンセン病療養所というのは沖縄本島北部にあり、対象者が暮らす地域からは車で2時間ほどかかります。単純に大変です。でもその大変さよりももっと優先される何かがあるのだろうということで、そこを考えてみようとしました。

こういう研究をすることには、病気そのものは治癒していても今なお何かしらの影響力を発揮しているハンセン病という病気の特性を明らかにすることになりますし、そうした病気の特性を形作っている、僕たちの暮らす社会の力(圧力・影響力)を見ることになりそうです。そのことにはきっと、医療社会学的な意味があるだろう、そう考えて研究を進めました。

 

インタビュー調査から:お医者さんにかかる時の2つのパターン

インタビュー調査からは、対象者がお医者さんにかかるときのパターンが2つあることが見えてきました。1つは、ハンセン病とは直接には関係しない傷病――糖尿病やがんなど――の治療の際です。もう1つは、ハンセン病の後遺症の治療の際です。

後者についてはおそらく説明が必要だと思うのですが、ハンセン病は末梢神経が侵される病気のため、けがをしても気づかず手当てが遅れ、潰瘍などができてしまう場合と、神経障害のために重心の置き方に問題が生じ、やはり足底などに潰瘍などができてしまう場合です。

さて、以上の2つのパターンがお医者さんにかかる場合としてはあるのですが、どちらの場合も、対象者はハンセン病療養所(や、療養所から独立して開業したお医者さん)のところを利用することが多いようです。が、利用する理由というか、背景が若干違います。

前者の、ハンセン病とは直接に関係しない傷病の場合は、「病院でハンセン病罹患経験を知られるのが嫌だから」「ハンセン病罹患経験を知られ嫌な思いをしたから」といったことが背景としてあります。つまりは、ハンセン病はすでに治っていて、また、見てもらう病気やケガもハンセン病とは直接は関係しなくても、ハンセン病を患っていたという経験が、今も対象者にのしかかってきているんですね(特にお医者さんにかかるときに)。そのために、ハンセン病罹患経験を知られてもいい/知られても嫌な思いをする危険性が低い、ハンセン病療養所(や、療養所から独立して開業したお医者さん)のところに通うというわけです。

後者の、ハンセン病による後遺症の治療の際は、また意味合いが変わってきます。ハンセン病の後遺症を適切に治療できるお医者さんが、それほどいないのです。そのため、ハンセン病療養所(や、療養所から独立して開業したお医者さん)のところに通い、後遺症の治療をしてもらうというわけです。

 

考察したこと

以上のことがインタビュー調査から見えてきました。でもこうしたことはあくまでも記述なので、それがどういう意味を持つのか考察する必要があります。そこで僕は、ハンセン病療養所退所者がこうした実践をする背景に、「病のスティグマ性」と「知識の配置の偏り」があるのだと指摘しました。

「スティグマ」とは、社会学者のE. ゴッフマンが導き出した概念です。ゴッフマンは、「彼が直接に接している〔対人関係/集団/社会〕より広い社会(中略)から得た基準によって、彼は他人が何を自分の欠点とみているかをひしひしと感じている」(Goffman 1963=2001:22)と指摘していますが、この「欠点」と見られる「基準」となるものが「スティグマ」です。たとえばハンセン病は後遺症が残りうる病気ですが、後遺症が「スティグマ」となり、周囲から「あ、あの人ハンセン病なのかもしれない」と見られ、場合によっては不利益を被ることもあるということです。何かしらのスティグマとなりうる症状などが生じうるという、ハンセン病の持つ特性を「病のスティグマ性」と表現したわけです。この「病のスティグマ性」があるがゆえに、対象者はハンセン病療養所(や、療養所から独立して開業したお医者さん)のところに通うのではないかと考えました。

「知識の配置の偏り」というのは結構そのままなのですが、ハンセン病の後遺症を治療するだけの知識を持ったお医者さんが、満遍なくいるというわけではなくて特定のところにだけ偏っているということです。

さて、このように、「病のスティグマ性」と「知識の配置の偏り」があるがゆえに、対象者はハンセン病療養所を退所した今も特有の暮らし方をせざるを得ないわけです。で、ここからはちょっと規範的な、「べき論」の話になるのですが、こうした暮らし方をせざるを得ない状況というのは、あるべき形なのでしょうか。

僕はこの論文を書いていく上では、2つの意味でそう考えませんでした。第1に、ハンセン病を病んだということだけで、お医者さんにかかる際の選択肢が狭められているわけですし、その結果長時間かけて遠方に通わないといけないわけです。これは不公平だと思いました。第2に、この論文を書いた当時はすでに、ハンセン病問題については広く知られ、国賠訴訟も原告勝訴で結審し、ハンセン病問題基本法という法律もできて、問題解決に向かっていた状況です。にもかかわらず当時このような状況が残っていたわけで、「解決に進もう」としている中でこれを放置するのは、やはりあるべき形ではないだろうと考えました。

以上のように、2つの意味で「この状況はちょっとどうにかするべきだな」と思っていたのですが、「どうにかする」のは誰の責務なのでしょうか。このことを考えるために、論文でもインタビューを引用したBさんの言葉を(若干読みやすく編集して)再度引用したいと思います。

 

〔ある議論の場で〕退所者の医療問題を話したんですよ。「〔退所者は〕やっぱり自分〔の罹患〕がばれることを怖がって行けない」と。そしたら、あるお医者さんが「提言がある」と。(中略)「ハンセン病の足の「裏傷」〔後遺症〕はね、ハンセンの専門医じゃないと治療ができない、分からないと言うけども、医者というのはね、病気を持ってる患者さんがね、自分の前に来て、『こういうことでこういう風になってます』ということを言わないと、医者は勉強できないよ〔退所者自身が思い切って医療機関に通わないと医者の側も分からない〕」と。「みなさん〔退所者〕がやる〔思い切って医療機関に通う〕と、『なるほどそうか』と、そこから勉強を始めるんだから、思い切って〔告白に向けて〕1歩踏み出してごらん」と言われるんです。(中略)「1歩踏み出してごらん」と言われるけど、この1歩踏み出すことができないんですよ。(中略)言いたいところはですよ、1歩踏み出せない原因を作ったのは何かということですから。(2007年9月1日に行ったBさんへのインタビューからの引用です。〔〕内は桑畑が補足しました。)

 

下線部の言葉が示唆的ですね(論文では下線は引いていませんが)。「病のスティグマ性」や「知識の配置の偏り」を作ったのは、この論文でインタビューをした対象者も含むハンセン病元患者では(少なくともだけでは)ありません。むしろ、ハンセン病元患者ではなく、僕たちも含めた“社会”の側なのではないでしょうか。そう考えると、「1歩踏み出す」責務は僕たちの方にあるのだと考えられそうです。

 

といったことをやってきました/います

以上が2011年の論文の紹介です。テーマとしては他に、HTLV-1関連疾患の当事者の研究や、施設における暴力の研究などをしていますが、基本的な発想だとか関心だとかはずっと変わっていないようにも思っています。

ということで、この山口大学でもこうした発想や関心をさらに展開してければなと考えています。あらためてよろしくお願いいたします。

 

文献(実際に論文で参照したもの全てです)

  • 天田城介,2005,「ハンセン病当事者の声とその根本問題――沖縄におけるハンセン病当事者の記憶から/へ」『佐賀部落解放研究所紀要』22:2-33.
  • 蘭由岐子,2004,『「病いの経験」を聞き取る――ハンセン病者のライフヒストリー』皓星社.
  • ――――,2005,「宿泊拒否事件にみるハンセン病者排除の論理――『差別文書綴り』の内容分析から」好井裕明編『繋がりと排除の社会学』明石書店、175-214.
  • 有薗真代,2008,「国立ハンセン病療養所における仲間集団の諸実践」『社会学評論』59(2):331-348.
  • Certeau, Michel De, 1980, “Art De Faire”, Union Générale d’Editions, Paris.(=1987,山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』国文社.)
  • 藤野豊,1993,『日本ファシズムと医療――ハンセン病をめぐる実証的研究』岩波書店.
  • ――――,2001,『「いのち」の近代史――「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』かもがわ出版.
  • Goffman, Erving, 1963, “Stigma: Notes on the Management of Spoiled Identity”, New Jersey: Prentice-Hall, Inc.(=2001,石黒毅訳『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ(改訂版)』誠信書房.)
  • 本多康生,2009,「ハンセン病療養所退所者の現在の生――家族・地域へのインクルージョンの視点から」『年報社会学論集』22:234-245.
  • 木野井猛,2007,「後遺症障害に対する装具」大谷藤郎監修、牧野正直・長尾榮治・尾崎元昭・畑野研太郎編『総説現代ハンセン病医学』東海大学出版会、339-360.
  • 国立療養所沖縄愛楽園入園者自治会編,1989,『命ひたすら――療養50年史』国立療養所沖縄愛楽園入園者自治会.
  • Kleinman, Arthur, 1988, “The Illness Narratives: Suffering, Healing and the Human Condition”, New York: Basic Books, Inc.,(=1996,江口重幸・五木田紳・上野豪志訳『病いの語り――慢性の病いをめぐる臨床人類学』誠信書房.)
  • 桑畑洋一郎,2005,「ハンセン病者の〈生活をつくる実践〉――戦後復興期の沖縄愛楽園を事例として」『保健医療社会学論集』16(2) :66-78.
  • ――――,2009,「ハンセン病者にとっての『社会復帰』とは何か――沖縄のハンセン病者を事例として」『社会分析』36:139-57.
  • 森川恭剛,2005,『ハンセン病差別被害の法的研究』法律文化社.
  • 犀川一夫,1998,「沖縄のハンセン病対策」琉球大学医学部付属地域医療研究センター編『沖縄の歴史と医療史』九州大学出版会、127-148.
  • 坂田勝彦,2008,「〈隔離〉 に抗う実践としての〈社会復帰〉――ハンセン病療養所退所者の生活世界」『年報社会学論集』21:49-59.
  • 指田百恵・永田智子・村島幸代・春名めぐみ,2005,「ハンセン病回復者の社会復帰時の生活に関する研究――再入所者への面接調査から」『日本公衆衛生雑誌』52(2):146-157.
  • 財団法人日弁連法務研究財団ハンセン病問題に関する検証会議,2005,『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』財団法人日弁連法務研究財団
  • 2017-03-30 (Thu)

とある公家の娘と大名の縁組から(歴史学コース 石田俊)

最近、江戸時代の公武婚(武家と公家との結婚)に焦点をあてて、いろいろ史料を探しています。今回は、公家の鷹司家と萩藩毛利家の縁組について、歴史研究の方法の話を交えながら書いていきたいと思います。

鷹司家は摂政・関白を勤める五摂家の一つで、家格としては非常に高いのですが、経済的にはたいしたことありません。元禄五年(一六九二)将軍で言えば五代綱吉の時代、その鷹司家に小石という娘が誕生しました。父は鷹司輔信。鷹司家の三男坊です。この時代は「家」を中心とした時代ですから、男子は自分の家を継ぐか別の家の養子となるか、さもなければお坊さんにでもなるか、というのが基本的なレールでした。しかし、輔信はどれも選ばず、茶人として気楽な(かどうかは分かりませんが)人生を過ごしました。号は有隣軒。寛保元年(一七四一)没。六十二歳といわれています。

ここで、ありゃ、と疑問に感じた人はいるでしょうか。没年から逆算すると、輔信の生まれは延宝八年(一六八〇)。小石は、輔信十三歳の時に生まれたことになってしまいます。数え年ですので、今でいうと十二歳。しかも小石には八重という姉がいます。後に水戸の徳川吉孚に嫁いだ彼女は元禄二年(一六八九)生まれですから、さすがに考えられない。輔信の年齢が間違っているのか、子供の年齢が間違っているのか、両方間違っているか。いろいろ史料を探しますと、『通兄公記』六(続群書類従完成会、一九九九年)寛保元年十月九日条に、有隣軒が「七十四才」で死んだという記事を見つけました。『通兄公記』は久我通兄という公家の日記で、輔信と同じ社会に生きる人ですから信憑性は高い。つまり、鷹司輔信は寛文八年(一六六八)生まれとみたほうが良さそうです。

・・・いきなり横道にそれました。まぁ、こういう細かいところを一つ一つ詰めていくのが歴史学ということになります。なお、鷹司輔信延宝八年誕生説は、「鷹司輔信」でググると真っ先にでてくる「コトバンク」(「日本人名大辞典」)に載っている情報です。辞書でも全て正しいとは限りませんし、自分で一つ一つ確認する必要があるわけですね。

さて、小石に縁談が持ち上がったのは元禄十四年(一七〇一)、十歳の時です。お相手が萩藩四代目藩主、毛利吉広です。ただ、吉広はこの時二十九歳ですから、当時の感覚からしてもバランスの悪さは否めない。なぜこの縁組が成立したのでしょう。

萩藩側の史料をみてみましょう。

殿様のご縁組については、松平出羽守様の御姫様とご縁が切れていらい、江戸ではふさわしい話がなかったところ、元禄十四年の冬になってお城の女中右衛門佐殿から「鷹司兼熈公弟の有隣軒様の二女を兼熈様のご養女として縁組されてはどうでしょうか、御台様と鷹司家は深いご縁がありまして、御台様にもかねてから心配されていたところです。毛利家と鷹司様もご縁がありますので、この縁組が整いましたら御台様にも一入お悦びになるでしょう」ということだったので、毛利家江戸屋敷で相談したところ「このお姫様は水戸様のご簾中八重姫様の妹様で、殿様ともご縁があるし、御台様ともより深いご縁ができることなので幸いのことである」と決定した・・・

山口県文書館蔵毛利家文庫「小石君様御縁組御結納一巻」(文書番号四四三賀一三)を省略しつつ現代文にしたものです。ちなみに原文は当然くずし字ですので、まず現代の字体に直す必要があります。その上で必要なのは人物比定。「松平出羽守」って誰か、「右衛門佐」って誰か、「御台様」って誰か。一つ一つ調べて特定し、語句の意味も調べ、話の筋を追っていくわけです。

ここでは正解を言いますと、「松平出羽守」は松江藩主の松平綱近。その娘は毛利吉広と婚約していましたが、婚礼前に亡くなってしまいました。「右衛門佐」はドラマにも登場する大奥女中の右衛門佐局。「御台様」は、時の将軍綱吉御台所、鷹司信子ということになります。信子は鷹司家出身で、小石からすれば叔母さんにあたります。つまり、将軍御台所である信子は、かねてから姪の小石の縁組について心配していた。そこに、毛利吉広が婚約者を亡くしたとの報が入ったため、大奥女中右衛門佐を通じて話を出してきた、という流れになります。ここからは、将軍の妻や大奥女中たちが、縁組の仲介をしていたことが分かります。

もう一つ面白いのは、萩藩側の回答です。公家との結婚というと、天皇・朝廷へのつながりや、雅な宮廷文化への憧れが強調されがちですが、少なくとも今回の場合、萩藩の関心は別のところにあったようです。まず、水戸家との関係です。先述のように小石の姉、八重は水戸家に嫁ぎましたから、小石と結婚すれば御三家の一つ水戸家と親戚になれるわけです。次に、当然ながら小石叔母の御台所信子とも親戚になれます。ということは、将軍綱吉ともお近づきになれるわけです。これは萩藩にとって大きなメリットになり得ました。とはいっても、幕府が萩藩のために有利な政策をとってくれるわけではありません。江戸幕府の政治は基本的に老中の合議で行われますので、将軍といえど、そうそう勝手なことはできないのです。ただ、将軍綱吉の覚えが良ければ、家の相続、官位の昇進といった「家」に関する事柄では優遇される可能性があります(この辺りの違いについては、福留真紀『将軍側近 柳沢吉保』(新潮新書、二〇一一年)が読みやすいです)。もちろん、お金がかかるというデメリットもありますが、萩藩はメリットのほうをとったわけです。

このようにして、元禄十五年(一七〇二)、毛利吉広と小石の縁組が幕府に正式に認められます。萩藩が摂家から正室を迎えるのははじめてのことでした。何しろ文化が違いますから、輿入れ後に摩擦が起こらないとも限らない。萩藩がとった対応は、非常に厳しいものでした。まず、萩藩は小石を鷹司家屋敷からいったん萩藩の京都屋敷に引き取ります。そして、引き取った後は、親・兄弟のほかは一切交流させず、もちろん小石に外出も許さず、お付きの女中も萩藩のほうであらかた選定しました。

小石様のあり方については、京都での格もあろうが、こちらのお家でおひきうけした後は、万事お家の先格をもって仰せつけることであるので、女中やそなたたちの勤め方も、これまでと違いはない。

これは、吉広が小石付裏年寄(総責任者)となった藩士へだした「御意」(ご意向)の内容です(前掲「小石君様御縁組御結納一巻」)。萩藩は、小石に萩藩の家風を遵守させようとしたのです。こうしたあり方が当該期の公武婚では一般的だったのでしょうか。もう少しいろいろな事例を検討しないと分かりません。

ともあれ、翌元禄十六年、小石は京都から江戸にむかい、同年のうちに婚礼が行われました。吉広三十一才、小石十二才です。

この結婚生活は長く続きませんでした。わずか四年後、吉広は亡くなります。小石は十六才の若さで髪を切り、養心院と名乗ります。そしてさらに二年後、彼女は江戸から京都に戻り、以後四十八才で亡くなるまで京都で過ごしました。

この結婚生活は、小石にとって幸せだったのでしょうか。それは分かりません。男性に比べて女性の史料はどうしても残りにくく、本件でも小石自身が記した史料は確認できていません。

史料が残っていない時、研究者はどこまで語るべきか。難しい問題です。基本的には、抑制的でなければなりません。第一、「あいつは不幸だったに違いない」「いや、幸せだったはず」。そんなことを判定するのは、研究者の役割ではありません。ただ矛盾するようですが、歴史に埋もれたいろいろな人の「声」を発掘するのは研究者の大切な仕事です。あなたには、彼女のどんな「声」が聞こえましたか。

  • 2016-07-19 (Tue)

《キャラ活》=キャラクターの二次創作活動(ジュマリ・アラム 哲学コース)

本学部、哲学コースで宗教学の分野を担当しているジュマリ・アラム(Djumali ALAM)と申します。私はインドネシア国籍の者ですが、東京生まれで、これまでの人生の3分の2の期間を日本で過ごしてきました。山口大学には、2002年の秋に着任しました。

このたびは、本学部のWEBサイトに「人文散歩:なぜ学ぶ・何を学ぶ・どう学ぶ」という新たなコラムが設けられましたが、自身の、いまだ試行錯誤で進めている宗教学探究のいくつかの関心事から、最近もっとも意欲的に手掛けている「キャラクターの二次創作活動」の研究について、簡単に紹介したいと思います。

この研究は、現代日本サブカルチャーにおける「キャラクターの二次創作活動」(以降より「キャラ活」と称する)に焦点を当て、同活動の実体とプロセスを、特有の精神的メカニズムを有するものとして体系化し、その上で、同活動が従事者に対してもたらしている精神性・精神的作用(スピリチュアリティ)を描き出そうと試みるものであります。

キャラ活とは、現代日本サブカルチャーにおける主要な活動パターンの一つであり、個々人が、主に業界の発信する創作媒体(漫画、アニメ、映画、演劇、オンラインゲーム、コンピュータゲーム、ライトノベル、小説などの原作)の登場人物から、キャラクターの基本型・雛形を抽出し、原作とは必ずしも一致しない――あるいは原作には存在しない――キャラクター的・ストーリー的な独自のコンテンツと展開を付与し、現代日本サブカルチャーの中で普及している別の媒体(同人誌、動画投稿サイト、展示会、即売会、イベント、唱歌ライブ・ダンス・ミュージカルをはじめとする舞台パフォーマンスなどのサブカルチャーの催しの場)に公開したり表現したりする活動のことです。

この研究では、キャラ活が「カリスマ」と「偶像」(相反する二つの宗教的力関係として)を志向する行為と動機によって成り立っているものと仮定します。すなわちキャラ活は、同活動に携わる現代日本の多くの若者にとって、超人間的エージェント・擬人的世界との関係を経験するためのすスピリチュアリティ的な媒体・回路の機能を有しているものと見ているのです。

キャラ活は、原作の登場人物のキャラクターそのものではなく、キャラクターのテンプレートを主たる原材料(ねた)とするものであり、「キャラクター・テンプレートの抽出」からはじまって、それを実体化する一連の過程(「キャラクターの実体化」)に向けられるものとなっているようです。具体的には次のような活動が挙げられます。

  1. 同人誌】同人誌に自作の文やイラストを掲載し、また展示会・即売会・イベント等に出品すること。
  2. キャラクター・グッズ】キャラクター・グッズを自作し、また展示会・即売会・イベント等に出品すること。
  3. コスプレ】コスプレのイベントに、コスプレイヤーとして参加すること。
  4. ボーカロイド・動画】パソコン上でボーカロイドや動画作成ソフトを使って音声・動画ファイルを作成し、動画投稿サイトに投稿すること。
  5. オーディエンス】前記①~④および舞台パフォーマンス等の場・媒体に、創作者・出品者・出演者・投稿者等(生産者/発信者/アクター)としてではなく、読者・鑑賞者・視聴者・閲覧者等(消費者/受信者/オーディエンス)として臨むこと。こうした活動がキャラ活になりうるのは、アクターとオーディエンスを隔てる境界線が薄い(または相互に入れ替わる)というキャラ活の特徴的な仕組みによるものである。
  6. アイドルファン】特定のアイドル・アーチスト・役者のファンになり、映画・舞台・ライブ・コンサート・イベント等を鑑賞すること(またはこうした催しに参加すること)。こうした活動がキャラ活になりうるのは、アイドルとファンが対等な位置と立場に置かれる(ときにはファンがアイドルを育てる)というキャラ活の特徴的な仕組みと相まって、両者が一緒になってアイドルを前もって「キャラクター化」するからである。
  7. 収集と使用】キャラクター・グッズや特定のキャラクターをテーマとした作品・品々を積極的に収集したり好んで使用したりすること。こうした活動がキャラ活になりうるのは、この場合の「収集」と「使用」は、キャラ活における場・媒体として機能するからである。

(1)から(4)のような活動は、個々の行為者が主体的・積極的に創作を行うため、部外者から見ても、比較的わかりやすいキャラ活であります。しかし(5)から(7)のような、一見して創作活動を行っているようには見えない活動も、キャラ活に含むものと見ることができます。

この研究の目的は、上記①~⑦のキャラ活の場・媒体の実地調査(フィールドワーク)を通して、次のことを明らかにすることです。

  1. 従事者の経験的世界から見る活動工程の図式
  2. キャラクター・テンプレートの抽出方法
  3. キャラクターの実体化の方法
  4. 「キャラクター・テンプレートの抽出」と「キャラクターの実体化」に際し、いかなるスピリチュアリティが従事者に働くのか。またこのスピリチュアリティは、宗教の古典的事象においてもよく知られる「カリスマ」と「偶像」の枠組みから見ると、いかなるものなのか。

キャラクターは、生身の生命体ではないということから、元来、「偶像」的な存在であるはずです。しかしこの研究が注目するキャラ活は、「カリスマ」性が伴うことを十分に示唆しており、キャラクター・テンプレートが実体化する過程の中で、カリスマに関する従来の研究や理論ではあまり取りあげられなかった、擬人化に特有なメカニズムとしてのスピリチュアリティが働くものと仮定します。

この研究は、現代日本サブカルチャーにおける若者主体の活動をスピリチュアリティの視点からとりあげる宗教学的研究です。宗教学は昨今、宗教の本質の説明を、既成の宗教体系・思想体系・宗教組織等の“古典的事象”の探究を通して行う方法から、徐々に重点がシフトまたは拡張し、“現代的事象”の中に潜む宗教性・宗教的機能、宗教的経験、コーピング・癒し・治癒等(概して「スピリチュアリティ」と呼べる)に注目するようになったと言えます。

しかしその対象範囲は、新宗教・ニューエイジと医療現場にまで及んでいるものの、サブカルチャーとキャラ活の世界には、まださほど深く至っていないのが現状です。

一方、宗教学または学術研究以外の領域では、サブカルチャー理論(オタク文化論など)が90年代以降の日本に定着しており、また文学と演劇論の文脈の中では古くからキャラクターが重要な分析対象として扱われています。これらの研究は、社会事象としてのキャラクター、原作のキャラクターの有り方、パフォーマンスとしてのキャラクター等に焦点を当てるものであり、スピリチュアリティの次元に置き換えて説明するものではないようです。

キャラ活は、現代日本社会におけるメジャーな若者文化でありますが、その反面、ネガティブなイメージも定着しているようです。この研究の特色の一つは、キャラ活に対する良し悪しの判断や評価を下さず、「キャラクター」の事象をキャラ活の文脈の中に置き、カリスマ性と偶像性という宗教の基本的な枠組み(超人間的エージェントや擬人的世界との関係)を通して、そのスピリチュアリティ的な実体を真正面から捉えなおすところにあります。すなわち従事者の心や経験的な次元から、その原理やメカニズムを垣間見、若者を取り巻く宗教性の一面を解き明かしながら記述してゆこうとする試みです。

Home 人文散歩

人文学部 明日をつかもう!
ピックアップ研究室
村上 龍研究室

村上 龍  研究室

観るのが好き、観たものについて語るのはもっと好き、そんな人を待っています。

人文学部 年間行事予定

ページの先頭へ